ミステリーとしての読みどころ
死体の額に、鋭い角のようなもので突かれた痕が残っている。しかもその死は、目撃者が見ている前で起きたのです。
『一角獣の殺人』(原題 The Unicorn Murders、1935年)は、〈不可能犯罪の巨匠〉と呼ばれた作家が、カーター・ディクスンという別の署名のもとに放った一冊。神話の獣の名を冠した謎が、フランスの古城で読者を待ち構えています。
著者について
カーター・ディクスン——この署名の下にいるのは、ジョン・ディクスン・カーその人です。1906年、アメリカのペンシルヴェニア州に生まれ、1977年に没した作家。
1930年、予審判事アンリ・バンコランを探偵役とする『夜歩く』でデビューし、以後は驚くほどの密度で代表作を積み上げていきました。カー名義では、ギディオン・フェル博士シリーズの『帽子収集狂事件』『曲がった蝶番』、ノンシリーズの『皇帝のかぎ煙草入れ』。
オールタイム・ベスト級と称される作品がいくつも並びます。
一方、カーター・ディクスンの名義で書き継がれたのが、ヘンリー・メリヴェール卿——通称H・M卿を探偵役に据えたシリーズでした。『黒死荘の殺人』『ユダの窓』といった名が居並ぶこの系列で、豪快な名探偵は不可能としか思えない事件に幾度も挑んでいます。
本書もその一冊。同じ書き手が、名義を替えることでもうひとつの謎解きの舞台を用意していたわけで、熱狂的な読者を獲得したのも道理でした。
物語の入り口
物語はパリから動き出します。休暇を楽しんでいたケン・ブレイクが、イヴリンという美女と再会する。
それだけなら旅先のささやかな幸運で終わったはずですが、この再会が、"一角獣"をめぐる極秘任務へと彼を引きずり込んでいくのです。
一角獣。神話の生きものの名を持つその任務が何を指すのか、輪郭はすぐには結びません。
ただ、その名の周辺には剣呑な空気が漂っています。希代の怪盗フラマンドと、彼を追い続けるフランス警察のガスケ。
宿敵同士のにらみ合いが、じりじりと熱を溜めている。ブレイクは、あろうことかその渦の真ん中へ足を踏み入れてしまいます。
やがて一行は嵐に見舞われ、たどり着いた先が『島の城』でした。フランスの古城です。
外は荒れ、行き場はない。石造りの建物の内側で、人々は否応なく顔を突き合わせることになります。
そして、事件が起こる。人の目のある前で。
死者の額には、鋭い角のようなもので突かれた痕が残されていました。見ていた者がいたのに、どうやって。
書名に掲げられた「一角獣」が、この一撃の痕と静かに重なり合ったとき、理屈の通らない出来事が読者の眼前に据えられます。
こうして盤面が整います。希代の怪盗、彼を追うパリ警視庁、そしてヘンリー・メリヴェール卿。
三者が三つどもえの知恵比べを繰り広げるというのが、本書の骨格です。名探偵と犯人が一対一で向き合う謎解きとは、立たされる場所がまるで違う。
読者は誰か一方の背中を追いかけるのではなく、三つの思惑が同時に糸を引く盤面のただ中に放り出され、どの手がどこへ伸びているのか見定めながら先へ進むことになります。
読みどころ
読みどころは、「見られていたのに不可能」という一点に、黄金期の趣向がまるごと注ぎ込まれているところです。 その死は、目撃者のいる前で起きました。
誰かが確かに見ていた。それなのに、どうやって手が下されたのかが説明できない。
不可能犯罪と一口に言っても仕掛けの選び方には作家ごとの好みがありますが、目撃という不利な条件をわざわざ背負い込むところに、この書き手が「巨匠」と呼ばれるに至った構えが見えます。
もうひとつ、大道具の使いっぷりも見逃せません。嵐、閉ざされた古城、怪盗と警察の追跡劇、そして神話の獣の名を冠した謎。
並べてみればいかにも芝居がかっていますが、本書はそれらを臆面もなく持ち出したうえで、きちんと謎解きの骨格と噛み合わせてしまいます。舞台装置が雰囲気づくりの飾りに終わらず、物語をきちんと前へ動かす歯車になっている。
黄金期の探偵小説が持っていた底力を、そのまま体感できる作りです。
向いているのは、不可能犯罪という一点で勝負する謎解きを浴びたい読者でしょう。豪快な名探偵が場を掻き回しながら真相へ向かうタイプの物語が好きなら、まず外しません。
反対に、現代的な心理描写や、静かで内省的な語りを求めて開くと、この賑やかさは少し騒がしく感じられるかもしれません。人物の内面をじっくり掘り下げるより、奇想と仕掛けで押し切る種類の作品です。
そこを承知のうえで身を任せるなら、時間を無駄にしたとは思わないはずです。
手に取るなら
現在手に取るなら、創元推理文庫です。原書は1935年、この文庫版は2009年の刊行。
黄金期に書かれた不可能犯罪ものが、いまも現役の文庫として棚に並んでいるのは、それだけでありがたいことです。巻末には山口雅也氏の解説を収録。
ヘンリー・メリヴェール卿の活躍をもっと味わいたくなったら『黒死荘の殺人』や『ユダの窓』へ、同じ書き手の別の探偵に会いたくなったらフェル博士ものの『帽子収集狂事件』『曲がった蝶番』へ——どちらへ進んでも、〈不可能犯罪の巨匠〉の懐の深さが待っています。まずは、額に穿たれたあの痕から。