誰も出入りできない石室。
黒死荘の殺人
幽霊屋敷の降霊術、閉ざされた石室での惨劇。H・M卿シリーズの幕開け。
雨にけぶる廃屋敷、いわくつきの因縁、真夜中にひらかれる降霊術。舞台立てはまるで怪奇小説そのものなのに、そこで起こる事件は、どこまでも理詰めで解かれることを待っている——。
それが『黒死荘の殺人』という一冊です。怪談の衣をまとった、本格の謎解きミステリ。
この一見ちぐはぐな取り合わせこそが、本作の何よりの魅力になっています。読み手はまず、じっとりと湿った屋敷の空気に飲まれ、それから頭を切り替えて論理の糸をたぐることになるのです。
物語の入り口
物語の中心に据えられているのは、〈黒死荘〉と呼ばれる一軒の邸宅です。まがまがしい因縁がまとわりつき、幽霊が出るという噂の絶えない屋敷。
名前からしてただならぬこの家に、語り手のケン・ブレイクは足を踏み入れることになります。きっかけは、旧友からの求めでした。
曰くつきの屋敷を調べてほしい——そう請われて、ブレイクは腰を上げるのです。ただし、ひとりではありません。
同行するのは、スコットランド・ヤードのマスターズ警部。心霊がらみのうさんくさい噂を、警察官らしい醒めた目で見定めようという道連れです。
怪異を信じる者と疑う者、その両方の視線を抱えたまま、一行は黒死荘の門をくぐります。
そしてその夜、屋敷では降霊術——心霊実験が催されようとしていました。怪しげな熱気が場を満たしていくなか、惨劇は起こります。
実験の主催者が、敷地内の石室で惨殺死体となって発見されるのです。しかも、その石室のありさまが尋常ではありませんでした。
扉にはかんぬきがかかり、窓には鉄格子がはめられている。おまけに外は雨夜とあって、地面には足跡ひとつ残されていない。
人がどこから入り、どこへ抜け出したのか、まるで見当がつかないのです。そして室内にただひとつ残されていたのが、博物館から盗み出されたという一振りの短剣でした。
閉ざされた石室。消えた足跡。
来歴の知れない短剣。扉も窓も塞がれ、外にも内にも抜け道が見当たらない——理屈のうえでは、誰にも成し得ないはずの殺人です。
怪奇の気配が濃く垂れこめるこの不可能な状況に、ヘンリ・メリヴェール卿が初めて腰を上げます。読者は、幽霊屋敷の湿った空気を吸い込みながら、後に幾多の難事件を手がける名探偵の、その第一歩に立ち会うことになるわけです。
読みどころ
本作の読みどころは、怪奇と論理という、本来なら反発しあうふたつの味わいが、一冊のなかで手を結んでいるところにあります。 幽霊屋敷、降霊術、屋敷にこびりついた呪わしい因縁——超自然を思わせる道具立ては、これでもかと惜しみなく投入されます。
それでいて、事件そのものは冷たいほど理詰めに扱われる。怪談を読むときのぞくりとした心地と、パズルを前にしたときの張りつめた心地を、同じページのうえで同時に味わえるのです。
この欲張りな読み味こそ、カーがこの分野で名をなした理由であり、本作が古典として生き延びてきた理由でもあります。
もうひとつ見逃せないのが、これがシリーズの第一歩だという点でしょう。まだ誰にもその力量を知られていない名探偵が、事件の霧のなかにふらりと現れる瞬間には、独特の高揚があります。
名探偵の推理に身をゆだねる愉しみを、いちばん最初の一冊から順に味わっていける。ここから読み始められるというのは、これから長い付き合いになるかもしれない読者にとって、なかなかの役得です。
予備知識はいりません。この一冊が、そのまま入り口になってくれます。
こんな人におすすめ
では、どんな読者に向く本でしょうか。幽霊屋敷や降霊術といった怪奇の色合いと、隙のない謎解きの手ざわり、その両方を欲張りに味わいたい人には、まず間違いなく響くはずです。
密室や不可能状況に心惹かれる人、名探偵という様式そのものを愛する人にも、うってつけの一冊。逆に、あくまで純粋なホラーとしての恐怖だけを求めて開くと、後半の理詰めな運びは少し理に勝ちすぎて映るかもしれません。
とはいえ、その怪奇と論理のせめぎあいこそが本作の眼目ですから、そこを面白がる構えさえあれば、読み味はむしろ深まっていきます。
作品の背景
本書は、ジョン・ディクスン・カーがカーター・ディクスンという別名義で1934年に発表した作品です。この名義で活躍することになるのが、本作で初めて姿を現す名探偵、ヘンリ・メリヴェール卿。
親しみをこめてH・M卿とも呼ばれるこの人物のシリーズは、まさに『黒死荘の殺人』から幕を開けます。怪奇の雰囲気を存分に立ちのぼらせながら、最後は論理でぴたりと事件を畳んでみせる——その両立を得意としたのがカーであり、本作はまさにその出発点。
以来、彼の真骨頂を示す一作として長く読み継がれてきました。密室ものの書き手として一躍名をあげた、その代表作でもあります。
手に取るなら
いま手に取るなら、創元推理文庫の新訳版(南條竹則・高沢治訳)が読みやすくておすすめです。ヘンリ・メリヴェール卿シリーズの記念すべき出発点であり、続く物語をまだ知らなくても、ここ一冊できちんと完結して楽しめます。
黄金期の薫りをたっぷりとまとった、怪奇と本格の幸福な同居。その最初の扉を開けるのに、これほどふさわしい一作もそうそうありません。
カーター・ディクスンについて
カーター・ディクスンは、ジョン・ディクスン・カー(1906〜1977)がもうひとつの筆名として使った名前です。カーはアメリカ・ペンシルヴェニア州の生まれで、1930年に予審判事アンリ・バンコランを探偵役とする『夜歩く』でデビューしました。
1930年代初めにイギリスへ渡り、英国を舞台に書き続けます。本名ではギデオン・フェル博士のシリーズや、シリーズ探偵を持たない『皇帝のかぎ煙草入れ』などを発表しました。
ディクスン名義の顔は、1934年の『黒死荘の殺人』で初登場したヘンリ・メリヴェール卿、通称H・M卿です。でっぷりとした体で怒鳴り散らしながら、密室や足跡のない殺人といった不可能犯罪を解いていきます。
『ユダの窓』はこの名義の代表作に数えられます。カーは1963年にアメリカ探偵作家クラブ(MWA)の巨匠賞を受け、「不可能犯罪の巨匠」の異名で呼ばれています。
書誌情報
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