ミステリーとしての読みどころ
退屈をもてあました名探偵のもとへ、怪奇な匂いを引きずった事件が持ちこまれる。ベッドに沈み込み、見る影もなく変わり果てた探偵の姿。
そして第一次世界大戦の前夜、まだ静けさをたたえた英国の田舎。『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』は、そんなふうに色合いの異なる情景を8つ束ねた、ホームズ短編集の第4集です。
収められた作品はいずれも1908年以降に少しずつ書き継がれたもので、シリーズがゆっくりと20世紀へ踏み込んでいく足取りが、一冊のなかに畳み込まれています。
著者について
著者のアーサー・コナン・ドイルは、1859年にイギリスで生まれました。開業医として身を立てようとしたものの仕事ははかばかしくいかず、生活のために筆をとったのが作家人生の始まりです。
転機は1887年、『緋色の研究』で名探偵シャーロック・ホームズを世に送り出したこと。1891年から〈ストランド・マガジン〉に連載したホームズ物の短編が圧倒的な人気を呼び、一躍作家としての地位を築きます。
『失われた世界』のようなSF、『勇将ジェラールの回想』のような歴史小説にも確かな仕事を残した、幅の広い書き手でした。もっとも、ホームズは一度は幕を引かれかけた探偵でもあります。
1893年の「最後の事件」でいったんライヘンバッハの滝に消えたのち、長編『バスカヴィル家の犬』や短編集『帰還』を経て断続的に書き継がれ、本書はその後期にあたる一冊です。収められた8編は、10年近い歳月をかけて少しずつ書かれた作品群。
英国では1917年10月、John Murray 社の手で一冊にまとめられました。
幕を開けるのは「〈ウィステリア荘〉」。退屈に苦しんでいたホームズのもとへ、怪奇な雰囲気の横溢する事件が舞い込む一編で、短編集の口火にふさわしい妖しさをまとっています。
続く「ボール箱」には、少し込み入った書誌上の来歴がありました。もともとは『回想』の時代に書かれながら、英国版の『回想』からは外され、めぐりめぐって本書に収め直された——そんな数奇な経緯をたどった作品なのです。
中盤に控えるのは、シリーズ屈指の本格として名高い「ブルース=パーティントン設計書」。英国海軍の機密文書をめぐる事件に、ホームズの兄マイクロフトが本格的に姿を見せる一編で、後の諜報サスペンスにも遠く影を落としました。
「瀕死の探偵」でワトスンが目にするのは、ベッドに横たわり衰弱しきったホームズの衝撃的な姿。「悪魔の足」は、南西イングランドの孤立した家を舞台に、植物毒の知識が鍵を握る、ほかにない手触りの作品です。
そのあいだに「赤い輪」「レイディー・フランシス・カーファクスの失踪」を挟み、巻を閉じるのが表題作「シャーロック・ホームズ最後の挨拶」。1914年8月、第一次世界大戦の勃発直前を舞台にした、シリーズのなかでもひときわ異彩を放つ一編です。
「最後の挨拶」という題が告げるとおり、ドイル自身も執筆当時はシリーズの幕引きを心に置いていたと伝えられます。読み終えたあとに、長い余韻をそっと残していく作品です。
読みどころ
本書の面白さは、10年に及ぶ執筆期間そのものが生んだ、題材の幅の広さにあります。 怪奇の匂う屋敷の事件があり、海軍機密をめぐる骨太の謀略があり、田舎家の毒殺劇があり、戦時下の張りつめた空気がある。
前の短編集にあった統一感はやや薄れる代わりに、地下鉄や国際政治、戦争の影といった「20世紀のホームズ」と呼ぶべき顔ぶれが次々に立ちあらわれてきます。名探偵の推理そのものを愉しむのはもちろんのこと、シリーズが時代と並走し、少しずつ姿を変えていく手触りまで味わえる。
それが、後期ホームズ集ならではの読み心地です。読者はワトスンのかたわらに腰かけ、円熟した探偵の仕事を一件また一件と見届けていくことになります。
シリーズを順に追いかけてきた読者には、迷わず薦められる一冊です。8編それぞれで舞台も謎の色合いも異なるため、腰を据えて挑む長編よりも、寝る前に一編ずつ摘まむような読み方とも相性がよいはず。
逆に、統一されたテーマや一貫した緊張感を短編集に求める向きには、この振れ幅の大きさが少し散漫に映るかもしれません。ただ、その雑多さこそが、書かれた歳月の長さを映した本書ならではの味わいでもあります。
ひとつの読み口に絞れないぶん、どの一編に出会えるかという楽しみが増える、と考えることもできるでしょう。
手に取るなら
いま手に取るなら、東京創元社の創元推理文庫、深町眞理子の新訳が読みやすく、電子書籍版も揃っています。深町眞理子は『シャーロック・ホームズの冒険』やクリスティ『ABC殺人事件』などの訳で知られる英米文学翻訳家です。
巻末には戸川安宣による解題と、日暮雅通による解説を収めています。短編集を順に追ってきた方であれば、『帰還』のあとに本書を置き、最終短編集『シャーロック・ホームズの事件簿』へと進む流れが、いちばん自然な道筋になるでしょう。