同じ教師が目撃された。
暗い鏡の中に
「同時に二か所にいた」と噂される教師。精神科医ウィリングがドッペルゲンガーの謎に挑む。
「あの先生は、同じ時刻に別々の場所で目撃された」。ひとりの人間が二か所に同時にいたなどという話は、普通なら聞き流されて終わります。
ところがその噂は、たったひとつの口から漏れたものではありませんでした。複数の証人が、そろって同じ光景を見たと言い張る。
ヘレン・マクロイの『暗い鏡の中に』は、この認識論的な薄気味悪さを、本格ミステリの論理そのもので受け止めようとした一冊です。
物語の入り口
物語の舞台は、ブレアトン女子学院という名門の寄宿学校です。ここに勤めてまだ五週間ほどにしかならない女性教師フォスティーナが、ある日、理由も告げられないまま突然に解雇を言い渡されます。
落ち度らしい落ち度も見当たらず、生徒からの評判が悪かったわけでもない。それなのに、なぜ。
当のフォスティーナ自身にすら、何が起きたのか呑み込めていません。
憤慨したのは、彼女に親しみを寄せていた同僚のギゼラでした。着任して日の浅いフォスティーナに好意を抱いていたギゼラには、この仕打ちがどうにも理不尽に映ります。
そこで彼女は、恋人である精神科医ベイジル・ウィリング博士を頼り、二人で学院の関係者を一人ずつ問いただしていくことにします。ウィリングは「すべての犯罪者は心の指紋を残す」と語る人物で、拳銃や足跡ではなく、人の心理の側から手がかりを読み解いていく、少し変わった名探偵です。
ところが、教師や生徒たちが言葉を濁しながら、ようやく口にした解雇の"原因"は、想像を絶するものでした。落ち着いた学舎の空気の下に、まともに口にするのもためらわれる何かが澱のように沈んでいる。
それは、精神科医として人の心を扱ってきた博士でさえ、すぐには足場を定められない類いの話でした。
困惑しながらも博士が謎の解明に踏み出した矢先、学院で死者が出てしまいます。噂話の段階でとどまっていたはずのものが、取り返しのつかない現実へと踏み越えてしまう。
読者はこのとき、幽霊譚めいた怪しさと、目の前で起きた死とのあいだに宙づりにされます。噂を笑い飛ばすことも、そのまま信じ込むこともできない——その居心地の悪い場所に立たされたまま、ページをめくり続けることになるのです。
読みどころ
本作の核にあるのは、「複数の人間が同じ怪を見た、あるいは見たと信じている」という謎です。 精神科医であるウィリングは、人間の知覚や記憶がどれほど当てにならないかを誰よりもよく知っています。
だからといって、口裏を合わせたわけでもない証人たちの一致した証言を、頭ごなしに切り捨てもしません。心理学という特殊な知識を証拠評価の道具として働かせるこの探偵像は、専門家探偵ものの中でも洗練された部類に入ります。
幻のように美しく不可解な謎を、論理の秤にどう載せるか。その手つきの誠実さが、本作を長く読み継がれる古典にしています。
物語の運び方にも触れておきたいところです。舞台が閉じた寄宿学校であることも、この作品の不安をじわじわと濃くしています。
逃げ場のない共同生活のなかで、教師も生徒もひとつの噂に囚われ、互いの顔色をうかがい、口を閉ざしていく。証言を集めれば集めるほど霧が晴れるどころか深まっていくような、独特の手ざわりがあります。
ウィリングとギゼラが関係者を訪ね歩く過程は、事実を掘り起こす調査であると同時に、人がどんなときに真実を語らなくなるのかを見つめる観察でもあるのです。
こんな人におすすめ
相性で言えば、事件現場の物証を積み上げて犯人を絞り込む、教科書的なパズルを期待すると少し勝手が違うかもしれません。ここで揺さぶられるのは、物的な足跡よりも、見た・見なかったという人間の証言そのものの土台です。
逆に、怪奇の手触りと理詰めの探偵小説が同居する読み味に惹かれる読者——ジョン・ディクスン・カーのように超自然の気配を本格の枠に招き入れる作風を好む読者には、迷わずおすすめできます。クリスティやカーをひと通り読み終えて、黄金期アメリカ本格にもまだ埋もれた名作があるのでは、と感じている人にこそ手に取ってほしい一冊です。
作品の背景
『暗い鏡の中に』は、ウィリング博士が登場するシリーズの第8作にあたり、しばしば著者の最高傑作として名前が挙がる作品です。ウィリングものは長編だけで十を超えて書き継がれており、この一作を入り口にして遡っていく楽しみも待っています。
手に取るなら
入手は創元推理文庫(駒月雅子訳)。長らく入手困難だった作品が2014年に新訳で復活したという経緯があり、巻末には千街晶之による解説が添えられています。
『2012本格ミステリ・ベスト10』海外編で第10位に選ばれた実績もあるとおり、いま読める時期を逃さず書棚に加えておく価値のある古典です。
ヘレン・マクロイについて
ヘレン・マクロイ(1904〜1994)は、ニューヨーク生まれのアメリカの作家です。1923年にフランスへ渡ってソルボンヌ大学に学び、その後も通信社の仕事や美術評論で筆をとりながら、1932年に帰国するまでヨーロッパで過ごしました。
1938年、長編『死の舞踏』でデビューし、同作で精神科医ベイジル・ウィリング博士を探偵役として登場させます。人の心の動きを手がかりに事件を読み解くこの博士は、以後十三作の長編で活躍しました。
ウィリングものと並んで、博士の登場しないノンシリーズの作品も手がけています。1946年には作家ブレット・ハリデイと結婚しました(のちに離婚)。
1950年には女性として初めてアメリカ探偵作家クラブ(MWA)の会長を務め、1990年には同クラブのグランドマスター賞を受けています。
書誌情報
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