ミステリーとしての読みどころ
華やかなパーティーの余興のさなか、招かれた人気作家がグラスの毒に倒れる。笑い声の絶えない社交の場と、突然の死。
その落差から、物語は静かに動き出します。ヘレン・マクロイ『幽霊の2/3』は、1950年代アメリカの出版業界を舞台に、精神科医の名探偵が毒殺の謎に挑む一作です。
著者について
マクロイは1904年、ニューヨークに生まれました。23年にフランスへ渡ってソルボンヌ大学に学び、在学中から美術評論家や新聞記者として筆をとって、十年近くをヨーロッパで過ごしています。
帰国後の1938年、長編『死の舞踏』でデビューし、同作で探偵役の精神科医ベイジル・ウィリング博士を生み出しました。人の心の動きを丁寧にすくい取る作風は高く評価され、1950年には女性として初めてアメリカ探偵作家クラブ(MWA)の会長に就任、90年には長年の功績を称えられてグランドマスター賞に輝いています。
『暗い鏡の中に』『殺す者と殺される者』と並ぶ代表作が、この『幽霊の2/3』です。原書は1956年。
長らく名前だけが語り継がれてきた作品でしたが、東京創元社の文庫創刊50周年を記念した復刊リクエストで第1位に選ばれ、新訳でよみがえりました。
物語の入り口
舞台は、出版社社長ケインの邸宅です。その夜、邸には出版界の人々が集い、にぎやかなパーティーが開かれていました。
座を沸かせていたのは、「幽霊の2/3」と呼ばれる余興のゲーム。本書の書名は、この遊びの名前から採られています。
ところが、談笑の輪がいちばん盛り上がったその最中に、招待客の一人だった人気作家エイモス・コットルが、毒を飲んで絶命してしまうのです。ついさきほどまで笑い合っていた人々の只中で、なぜ彼が死ななければならなかったのか。
幸いと言うべきか、その夜の客の中には、精神科医のベイジル・ウィリング博士がいました。博士は警察に協力を申し出て、パーティーに居合わせた顔ぶれ——作家を取り巻く人々——から、一人ずつ事情を聞いてまわります。
すると、和やかな社交の表面をそっとめくった下から、意外な事実が次々と姿を現していく。穏やかに見えた作家の周囲の人間関係は、聞けば聞くほど錯綜し、一筋縄ではいかない形をしていることが分かってきます。
物語がじっくりと描き出すのは、この1950年代アメリカの出版業界という世界そのものです。本を書く者、送り出す者——名前と評判がそのまま値打ちを左右する世界の内側で、関係者たちの証言は少しずつ食い違い、また思わぬところで重なり合いながら、事件の輪郭を形づくっていきます。
華やかな世界の内側の空気が、聞き込みが進むほどに生々しく立ちのぼってくるのです。きらびやかなパーティーの記憶と、目の前に横たわる毒殺という現実。
その落差に引きずられるように、読者はページをめくる手を止められなくなります。
読みどころ
読みどころは、人の心を読む名探偵が、証言の積み重ねだけを頼りに真実へ近づいていく過程にあります。 ウィリング博士の武器は、精神科医としての人間観察です。
事件を外側から眺めるのではなく、関係者一人ひとりの言葉づかいや態度に分け入り、その奥でうごめく心の動きを読み取っていく。証言のわずかな食い違いや、ふとした表情のこわばりが、博士の目には見過ごせない手がかりとして映ります。
人が何を語り、何を語らずにおくのか。派手な立ち回りではなく、話を聞くという地道な営みを謎解きの中心に据えているところに、この探偵ならではの持ち味があります。
黄金期アメリカ本格の薫りを保ちながら、その舞台に作家と編集者の世界を選んだことも、本作の見どころです。書き手と送り手が織りなす人間模様は、それ自体が読み物として滋味に富んでいます。
名探偵の推理に静かに身を委ねる愉しみを、正面から味わわせてくれる作りです。
古典的な名探偵ものの呼吸——腰を据えた聞き込みと論理で真相へ至る運び——を好む読者には、まっすぐ薦められる一冊です。人物の心理をじっくり味わいたい読者や、黄金期らしい端整な謎解きに身を委ねたい読者にも、よく応えてくれるでしょう。
逆に、息もつかせぬ速度や派手なアクションを期待して開くと、この落ち着いた歩みは少し悠長に映るかもしれません。けれども、関係者の言葉に耳を澄ませ、名探偵とともに謎の芯へゆっくり近づいていく時間そのものが、本作の醍醐味なのです。
手に取るなら
手に取るなら、創元推理文庫の新訳です。巻末には杉江松恋による解説を収めています。
刊行時には朝日新聞の書評コーナーで紹介されたほか、各種のミステリランキングにも名を連ね、『IN★POCKET』の2009年文庫翻訳ミステリーベスト10では読者部門第5位、『ミステリが読みたい!2010年版』でも上位に挙げられました。名前のみが語り継がれてきた傑作、という評判が誇張でないことは、読み進めればおのずと腑に落ちるはずです。
精神科医探偵の代表作を、いま最も確かな形で味わえる一冊です。