黄金期英国古典 1937
警部の車の後部座席に、
死体が乗せられていた。
『悪魔と警視庁』E・C・R・ロラック

書評

悪魔と警視庁

悪魔の扮装の死体から始まる、霧の都とマクドナルド警部の知恵比べ。

悪魔と警視庁 表紙画像
E・C・R・ロラック 東京創元社(創元推理文庫) 原書 1937年 · 邦訳 2013年
目次

濃い霧が街を覆う晩秋のロンドンで、一台の車の後部座席から、悪魔の装束をまとった刺殺死体が見つかります。見つけたのはスコットランドヤードのマクドナルド首席警部。

しかもその車は、前夜に彼自身が警視庁へ置いてきた一台でした。舞台衣装めいた奇怪な見立てを入口にしながら、そこから先は堅実な捜査で少しずつ霧を晴らしていく——『悪魔と警視庁』は、英国探偵小説黄金期のただ中に書かれた、正統派の警察ミステリです。

物語の入り口

マクドナルド首席警部は、ロラックが1931年のデビュー作で主役に据え、のちに作者の代名詞となった探偵です。

物語は、事件が起きる前の、なんでもない一場面から幕を開けます。濃霧に包まれた晩秋のロンドン。

街灯の光さえにじみ、通りのざわめきまでくぐもってしまうような夜です。帰庁の途中だったマクドナルド首席警部は、深夜の街路で引ったくりに遭った女性を助けます。

危ういところを救い、その夜は車を警視庁に置いたまま帰宅する。手柄と呼ぶほどでもない、警察官の一日の、ごく穏やかな終わり方でした。

けれど、この何気ない静けさがあるからこそ、翌朝の一報がいっそう際立つことになります。

異変は翌日に訪れます。置いてきたはずの車。

その後部座席に、悪魔——メフィストフェレスの装束をまとった刺殺死体が座っていたのです。よりによってスコットランドヤードのお膝元で、舞台衣装さながらの扮装をまとった死体。

奇怪という言葉すら生ぬるい、常軌を逸した幕開けです。

奇怪さは、これだけでは終わりません。捜査に乗り出したマクドナルドは、同じ夜、ある老オペラ歌手の車に、一本のナイフと一枚の楽譜が残されていたことを掴みます。

楽譜は『ファウストの劫罰』。悪魔の扮装、そして残された楽譜——手元には脈絡の読めない断片がいくつも積み上がっていくばかりで、それらをつなぐ糸はまだ一本も見えてきません。

読者に手渡されるのは、警部が握っているのと同じ材料だけです。解けそうな糸口を探して、つい前のめりになる。

けれど確かな足場は、まだどこにもありません。説明も、先回りの見取り図もないまま、霧のなかに立つ捜査官のすぐ隣へと置かれることになります。

ここから、静かな知恵比べの幕が上がります。

読みどころ

この作品の面白さは、派手な幕開けと、そこから始まる丹念な捜査の取り合わせにあります。 悪魔の扮装という、いかにも芝居がかった謎で読者の心をつかんだうえで、ロラックは、手がかりを一つずつ拾い、細い糸を根気よくたぐる警部の捜査を、じっくりと描いていきます。

警部の思考の歩幅に寄り添いながら、霧が晴れていくのを見届ける時間そのものが、この本の読み心地をかたちづくっています。名探偵の推理に静かに身を委ねる、黄金期らしい謎解きの醍醐味がここにあります。

もう一つ見逃せないのは、この一冊が日本の読者にとって「新しく開いた扉」である点です。原書が世に出たのは1937年。

クリスティと同じ時代の空気を吸って書かれた一作でありながら、日本語で読めるようになったのはずっと後のことでした。黄金期の英国ミステリをひととおり味わってきた人ほど、まだ地図の埋まっていない一角へ踏み込む楽しさを覚えるはずです。

霧、警視庁、そして芝居がかった死——道具立ての一つ一つが、あの時代の薫りをまとっています。

堅実な捜査の足取りをたどり、名探偵と一緒に頭を働かせること自体を楽しめる読者には、迷わず薦められます。霧に沈むロンドンの空気や、黄金期の本格が持つ様式美に心惹かれる人にも、うってつけでしょう。

腰を据えて、探偵の手つきをじっくり味わう——そんな読書の時間を持てる夜にこそ似合う一冊です。逆に、息もつかせぬ疾走感やめまぐるしい展開を求めて開くと、一歩ずつ積み上げていくこの運びは、少しゆっくりに感じられるかもしれません。

ただ、その落ち着いた足取りこそ、手がかりを一つずつ確かめていく本格の骨法であり、この作品の背骨でもあります。

作品の背景

『悪魔と警視庁』は、長らく日本語で読めないままでした。空白を埋めたのは、2013年、創元推理文庫が本邦初訳として送り出した、この一冊です。

手に取るなら

いま手に取るなら、創元推理文庫版です。訳は藤村裕美。

長く未訳だった本作を本邦初訳として届けた立役者で、同じくロラックの『鐘楼の蝙蝠』も手がけています。本作を気に入ったら、同じ訳者の手でそのまま次の一冊へ進める。

巻末には森英俊による解説を収録しています。日本ではながらく顔の見えなかった黄金期の実力派を、確かな訳で迎えられる好機です。

E・C・R・ロラックについて

E・C・R・ロラックは、本名をエディス・キャロライン・リヴェットという英国の推理作家です。1894年にロンドン北部のヘンドンで生まれ、1958年に亡くなりました。

ロンドンの美術工芸学校に学び、刺繍やカリグラフィーの作り手としても生涯活動を続けています。

1931年の長編第1作でロンドン警視庁のロバート・マクドナルド首席警部を登場させ、以後四半世紀あまりにわたって、この探偵を主役とする長編を数多く書き継ぎました。1936年からは英国の名門叢書コリンズ社〈クライム・クラブ〉に移り、生涯その主力の書き手であり続けます。

ロンドンの街なかも英国の田園も舞台にこなし、黄金期の英国らしい正統派の謎解きを書きました。キャロル・カーナック名義でも別のシリーズを発表しています。

近年は英国図書館の復刊叢書で作品が相次いで再刊され、再評価が進んでいます。

書誌情報

出版社
東京創元社 / 創元推理文庫
原書刊行年
1937
邦訳刊行年
2013
ISBN-13
9784488211035
系譜
黄金期英国古典 / 警察手続き · 名探偵もの

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この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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