黄金期英国古典 1937
首と両手首のない死体。
名前も奪われていた。
『鐘楼の蝙蝠』E・C・R・ロラック

書評

鐘楼の蝙蝠

霧のロンドンを舞台に、消えた男と首なし死体を追う英国正統派の警察ミステリ。

鐘楼の蝙蝠 表紙画像
E・C・R・ロラック 東京創元社(創元推理文庫) 原書 1937年 · 邦訳 2014年
目次

霧に沈むロンドンで、一人の作家が見知らぬ男の影に神経をすり減らしている——『鐘楼の蝙蝠』は、そんな不穏な気配から静かに幕を開けます。付きまとう謎の男、やがて訪れる失踪、そして塔を備えた古い建物で見つかる首のない遺体。

派手な仕掛けよりも、事実を一つずつ拾い上げていく捜査の手ざわりで読ませる、英国黄金期の正統派警察ミステリです。

物語の入り口

探偵役を務めるのは、ロンドン警視庁のマクドナルド首席警部。ロラックが1931年のデビュー作『The Murder on the Burrows』で初めて登場させ、以後主役に据えて次々と書き継いだシリーズの警部です。

物語は、作家ブルースが抱えた小さな、けれど拭い去れない不安から始まります。彼は、ドブレットと名乗る謎の男につきまとわれ、その影にすっかり神経をとがらせていました。

何者なのか、何が目当てなのか、まるで見当がつかない。得体の知れない相手に日常をじわじわと侵されていく心細さが、まず物語の底に低く流れています。

見かねたのは、ブルースを案じる友人でした。その頼みを受けて動き出すのが、新聞記者のグレンヴィルです。

記者らしい嗅覚と粘り強さで、彼はやがてドブレットの住みかを突き止めます。ここまでは、謎の輪郭がようやく見え始めた段階。

読者もまた、グレンヴィルの肩ごしに「正体を暴けるかもしれない」というささやかな手応えを覚えることでしょう。

ところが、話はそこから思いがけない方向へ滑り出します。突き止めたはずのドブレットは、翌日には忽然と姿を消してしまう。

残された空き家をあらためると、出てきたのは、パリへ発ったはずのブルースのスーツケースでした。そして塔を備えた古い建物の一室で、首と両手首を欠いた遺体が見つかるのです。

つきまとっていた男は消え、ここにいるはずのない人物の持ち物が現れ、名を持たない遺体が横たわる。事件の入り口に立った読者の手には、答えよりも先に、いくつもの問いが一度に握らされます。

この遺体は誰なのか。消えた男はどこへ行ったのか。

そこへ、ロンドン警視庁のマクドナルド首席警部が乗り出してきます。鮮やかな閃きに頼るのではなく、聞き込みと事実の照合を一つずつ積み上げていく、地に足のついた捜査で。

読みどころ

読みどころは、これだけの謎を一気に投げかけておきながら、その解きほぐし方があくまで手堅く、誠実であるところです。 公式の紹介が「謎に次ぐ謎、黄金期本格の妙味溢れる傑作」とうたう通り、序盤で膨らんでいく不可解の量は相当なもの。

けれども物語は、警部の地道な足取りに寄り添いながら、事実の一つひとつを検証していきます。読者は警部と同じ目の高さで手がかりを眺め、同じ材料から筋道を組み立てていく位置に立たされる。

この「一緒に考えさせてくれる」感触こそ、黄金期の正統派がいまなお読み継がれる理由であり、本作が代表作に数えられるゆえんでもあります。

霧のロンドンという舞台立ても、この物語を静かに支えています。視界のきかない街、寂れた建物、消えていく人影——不穏な情景が折り重なることで、単なる論理パズルにとどまらない、ひんやりとした空気が全体を包み込みます。

謎解きの骨格の確かさと、こうした雰囲気の豊かさが同居しているあたりに、看板作家と呼ばれた書き手の力量がにじみます。

一気呵成のスピードや、めまぐるしく畳みかける展開を求める読者には、序盤の丁寧な運びが少しゆっくりに感じられるかもしれません。けれども、手がかりを吟味しながら探偵とともに歩む時間そのものを愉しめる人にとっては、この着実さこそが何よりのごちそうです。

霧の街の気配に身を浸し、断片が一つずつ像を結んでいく過程をじっくり味わいたい——そんな夜にこそ似合う一冊です。

作品の背景

本作『鐘楼の蝙蝠』は、1937年に原書が世に出た、マクドナルドものの代表作の一つです。ところが日本では長らく紹介の機会に恵まれず、初めて邦訳されたのは2014年のこと。

長い歳月のあいだ埋もれていた黄金期の一冊が、時を越えて日本の読者のもとへ届いた——そんな来歴を持つ作品でもあります。

手に取るなら

いま手に取るなら、創元推理文庫版(藤村裕美訳・2014年)です。長らく未訳だったロラックを日本に届けた記念すべき一冊で、巻末には駒月雅子氏の解説を収めています。

同じ藤村裕美の訳では、ロラックのもう一冊『悪魔と警視庁』も読めるため、この作家の手ざわりをもう少し味わいたくなったときの、次の一歩にも困りません。クリスティと同じ時代の空気を吸った英国本格を、正面から堪能できる好著です。

E・C・R・ロラックについて

E・C・R・ロラックは、本名をエディス・キャロライン・リヴェットという英国の推理作家です。1894年にロンドン北部のヘンドンで生まれ、1958年に亡くなりました。

ロンドンの美術工芸学校に学び、刺繍やカリグラフィーの作り手としても生涯活動を続けています。

1931年の長編第1作でロンドン警視庁のロバート・マクドナルド首席警部を登場させ、以後四半世紀あまりにわたって、この探偵を主役とする長編を数多く書き継ぎました。1936年からは英国の名門叢書コリンズ社〈クライム・クラブ〉に移り、生涯その主力の書き手であり続けます。

ロンドンの街なかも英国の田園も舞台にこなし、黄金期の英国らしい正統派の謎解きを書きました。キャロル・カーナック名義でも別のシリーズを発表しています。

近年は英国図書館の復刊叢書で作品が相次いで再刊され、再評価が進んでいます。

書誌情報

出版社
東京創元社 / 創元推理文庫
原書刊行年
1937
邦訳刊行年
2014
ISBN-13
9784488211042
系譜
黄金期英国古典 / 警察手続き · 名探偵もの

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この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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