黄金期英国古典 1938
嫌われ者の城主が墜ちた。
自殺か他殺かも分からない。
『ある詩人への挽歌』マイケル・イネス

書評

ある詩人への挽歌

スコットランドの古城主の墜落死を、複数の語り手が解き明かす技巧の傑作。

ある詩人への挽歌 表紙画像
マイケル・イネス 東京創元社(創元推理文庫) 原書 1938年 · 邦訳 2021年
目次

クリスマスの朝、スコットランドの古城から、城主墜落死の報がもたらされます。けれど、その死を悼む者は村にひとりもいない——。

『ある詩人への挽歌』(原題 Lament for a Maker、1938年発表)は、英国黄金期を代表する技巧派マイケル・イネスが、複数の語り手の声を編み合わせて一つの死を照らし出した一編です。自殺なのか他殺なのかすら判然としない当主の最期を、立場も語り口も異なる証言者たちが順に語り継いでいく。

その声が重なるにつれ、覆い隠されていたものが少しずつ厚みを帯びて立ち上がってきます。

物語の入り口

物語の舞台は、スコットランドの奥まった土地に建つエルカニーの古城です。当主ラナルド・ガスリーは、桁外れの吝嗇漢でした。

地元の村人からは疎まれ、奇矯なふるまいが年を追うごとに昂じて、とうとう気がふれたのではないかと囁かれていた人物です。その城主が、大雪の朝、城の高みから墜ちて命を落とす。

報せは村へと伝わりますが、涙をこぼす者はいません。当主の死を、誰ひとり悲しまない——この一点だけで、エルカニーという土地に長く澱んでいたものの重さが伝わってきます。

死のありようもまた、はっきりしません。自ら身を投げたのか、それとも誰かの手にかかったのか。

しかも、事情を最もよく知っているはずの姪は、恋人とともに城から姿を消し、行方が知れなくなっている。降りしきる雪が城を外の世界から切り離し、問いだけが宙に残されます。

この謎を語るのは、ひとりの語り手ではありません。村で靴直しを営む長老ユーアン・ベル、大雪に足止めされてたまたま城に身を寄せることになった青年ノエル、そして捜査に乗り出すアプルビイ警部——立場も年齢も語り口もまるで違う証言者たちが、それぞれの見た城主像を、それぞれの言葉で語っていきます。

同じ出来事も、別の目を通れば輪郭や色合いが変わって見える。ひとつの証言では割り切れなかった部分が、次の声によって埋められ、あるいは新たな影を落とす。

読者は、その声から声へと渡り歩きながら、断片を自分の手で継ぎ合わせていく位置に立たされます。

読みどころ

読みどころは、語り手を替えるという一手が、そのまま作品の骨格になっているところです。 複数の視点から一つの死を眺める構成は、ともすれば技巧の見せびらかしに終わりがちですが、本書ではその形式そのものが、真相へ近づく道筋として働いています。

誰が語るかによって、同じ城主がまるで別人のように立ち現れてくる。その落差そのものが、読み手を先へと引っ張っていく力になっています。

複数の語り手が代わる代わる証言を差し出すという形式は、明るく整然とした謎解きが主流だった黄金期にあって、際立って野心的な試みでした。事件の全体像を一人の探偵の視点にまとめてしまうのではなく、いくつもの声の隙間から浮かび上がらせる。

その手つきが、本書に独特の奥行きを与えています。

もうひとつ、本書を忘れがたいものにしているのが、全体に流れる詩情です。表題は、スコットランドの詩人ウィリアム・ダンバーの詩「詩人たちへの挽歌」に由来します。

この古い挽歌を通奏低音のように敷いた語りが、殺伐となりかねない事件の輪郭を、どこか哀切な色へと染めていく。謎解きの手際だけでなく、読後に胸へ惻々と迫る余韻までを備えているところに、この作品が長く読み継がれてきた理由があります。

こんな人におすすめ

軽快でユーモラスな謎解きを求める向きには、雪に閉ざされた古城の暗さや、証言をひとつずつ突き合わせる腰の据わった語り口は、少しばかり重く感じられるかもしれません。けれど、一つの死をさまざまな角度から見つめ直し、その手ざわりをじっくり味わいたい読者にとって、これほど噛みごたえのある一編もそうそうありません。

声の重なりに身をゆだね、隠れていたものが輪郭を結んでいく過程そのものを楽しめる人にこそ、まっすぐ薦められます。

作品の背景

『ある詩人への挽歌』は、1936年の『学長の死』で初めて姿を見せた名探偵ジョン・アプルビイ警部のシリーズに連なる一編であり、のちに「マイケル・イネスの最高傑作」とまで呼ばれることになる代表作です。原書の刊行は1938年。

邦訳が届けられたのは2021年のことでした。

手に取るなら

いま手に取るなら、創元推理文庫版(高沢治訳)です。訳者の高沢治は、ディクスン『黒死荘の殺人』『ユダの窓』『白い僧院の殺人』などの名訳で知られる英米文学の翻訳家。

巻末には若島正氏の解説も収められています。黄金期英国ミステリの技巧と詩情が分かちがたく結びついた、静かな凄みをたたえる一冊です。

マイケル・イネスについて

1906年、スコットランドのエディンバラに生まれました。本名はジョン・イネス・マッキントッシュ・スチュアートです。

オックスフォード大学で英文学を学び、リーズ大学の講師、オーストラリアのアデレード大学の英文学教授、ベルファストのクイーンズ大学の講師を経て、オックスフォードのクライスト・チャーチで教えました。本名ではジョイスやコンラッド、ハーディの研究書や普通小説を発表しています。

探偵小説はマイケル・イネス名義で書き、1936年から86年にかけて50冊近い長編と短編集を残しました。本人はそれらを「エンターテインメント」と呼んでいます。

文学的な引用と奔放な機知に富む作風で知られ、中心となる探偵ジョン・アプルビイは、のちにロンドン警視庁の警視総監にまで昇進します。1994年、88歳で亡くなりました。

書誌情報

出版社
東京創元社 / 創元推理文庫
原書刊行年
1938
邦訳刊行年
2021
ISBN-13
9784488182021
系譜
黄金期英国古典 / 警察手続き · 名探偵もの

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この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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