ミステリーとしての読みどころ
病気療養中の警部のもとを、上司がわざわざ訪ねてきます。携えてきたのは見舞いの言葉、そして一年前に起きたきり迷宮入りしていた殺人事件でした。
引退を決意していた男の前に、最後の難事件が置かれる——『悔恨の日』は、その静かな一場面から動き出す警察小説です。コリン・デクスターが1999年に発表した、モース主任警部シリーズの完結編にあたります。
著者について
コリン・デクスターという作家の名は、モース主任警部という一人の警察官と分かちがたく結びついてきました。ハヤカワ・ミステリ文庫版は、このシリーズを「ミステリ界に偉大な足跡を印す本格シリーズの最高峰」と紹介しています。
本作はその堂々たる完結編。長く続いた連作の最後を飾る事件、という肩書きは、それだけで独特の重みを帯びるものです。
シリーズを追いかけてきた読者なら、表紙をめくる手にも自然と力がこもるはず。これまでこの世界に触れてこなかった読者にとっても、一つの大きなシリーズが締めくくりにどんな謎を選んだのかを見届けるのは、それ自体が興味深い体験になります。
そしてデクスターが最後に用意したのは、警察小説としてもっとも扱いの難しい種類の事件でした。一年前に捜査が行き詰まり、そのまま時間だけが過ぎていった事件です。
一年前、一人の看護婦が寝室で死体となって発見されました。手錠をかけられ、全裸のまま。
現場の異様さだけを取り出せば、これほど強い印象を残す事件もそうはありません。ところが捜査は、容疑者をただの一人も浮かび上がらせることができませんでした。
あまりに目を引く現場と、そこにいたはずの人物像の不在。その落差を抱えたまま事件は迷宮入りしたものと見なされ、捜査の熱もやがて冷めていきます。
寝室という、もっとも私的な場所で命を奪われた女性がいて、それなのに、その傍らに立っていたはずの人物の輪郭だけが浮かんでこない。捜査が行き詰まるときの、いちばん重い形といっていいでしょう。
そこへ、最近になって匿名の情報提供が寄せられます。誰が、何のために。
差出人の意図すら判然としないその一報が、凍りついていた事件を再び動かしました。上司であるストレンジ主任警視がモース主任警部のもとへ足を運んだのは、そのためです。
療養中の相手に、一年前の未解決事件を委ねる——上司としては、ずいぶん無理のある依頼でしょう。しかもモースはすでに引退を決意していました。
断る理由なら、いくらでもあったはずです。
それでも警部は、この最後の難事件に果敢に挑んでいきます。一年という歳月は、捜査にとってとにかく容赦がありません。
現場はとうに元の暮らしへ戻り、証言する人の記憶は輪郭を失い、当時なら意味を持ったはずの小さな符合も、日々の風景に紛れて見えなくなっている。読者は、何もかもが冷え切ったあとの事件に、警部と一緒に一年遅れで到着することになります。
手元にあるのは古い記録の束と、素性の知れない誰かがもたらした情報だけ。ここでは時間そのものが、いちばん手強い相手として立ちはだかります。
ここから何を引き出せるのか——その問いを正面から突きつけられるところから、この物語は始まります。
読みどころ
読みどころは、一度は死んだ捜査をもう一度立ち上げていく、その手続きの緊張にあります。 再捜査には、いま起きたばかりの事件が持つ勢いというものがありません。
頼れるのは、すでに誰かが調べ終えた材料をあらためて並べ直し、当時とは違う角度から光を当てる作業です。同じ事実が、置き場所を変えるだけで別の顔を見せはじめる瞬間。
謎解きミステリの醍醐味は、まさにそこにあります。英国警察の重厚な手続きと、机上で組み上げられていく推論。
その二つが噛み合うところに、このシリーズが長く支持されてきた理由が見えてきます。
読み手としても、うかうかしてはいられません。一年前の記録を警部の肩越しに覗き込む位置に立たされ、どの一行がのちに効いてくるのかを自分の頭で数えることになるからです。
しかも情報の出どころは匿名。その一報をどこまで信じてよいのかという不安定さが、最後まで足場をぐらつかせ続けます。
頭をフル回転させながら読みたい人にとって、これほど歯ごたえのある条件設定もそうありません。
こんな人におすすめ
相性でいえば、追跡や銃撃の連続で押し切る物語を期待する読者には、本作の歩みはゆるやかに映るかもしれません。ここでの見せ場は、聞き込みと記録と思考のあいだを往復する時間の側にあります。
逆に、提示された材料をひとつずつ吟味しながら進むのが好きな読者、英国の空気をまとった警察小説をじっくり味わいたい読者には、これ以上ない一冊。シリーズを順に読んできた人にとって特別な意味を持つ作品であることは言うまでもありませんが、一つの未解決事件をめぐる捜査小説として、ここから手に取る読み方もできます。
手に取るなら
現在手に入りやすいのは、早川書房のハヤカワ・ミステリ文庫版です。原題は The Remorseful Day、1999年の作品。
ほかの作品でモース主任警部の捜査の呼吸に馴染んでから本作へ向かうという順路もあれば、「最高峰」と謳われた連作が最後にどんな事件を選び取ったのかを先に確かめる、という入り方もあります。どちらから近づくにせよ、英国警察小説の一つの到達点がここに置かれていることは変わりません。
長く読み継がれてきたシリーズが最後に差し出した難事件を、ぜひ自分の頭で受け止めてみてください。