ミステリーとしての読みどころ
オックスフォード大学が、学寮長の椅子をめぐって静かに揺れているさなかのことでした。その同じ街の、なんの変哲もない住宅地で殺人事件が起こります。
血の海に横たわっていたのは、ひとりの女性。大学の名誉をめぐる争いと、垣根を隔てて暮らす人々の日常。
交わるはずのない二つの世界が、一件の死によって結び直されていきます。『死はわが隣人』は、テムズ・バレイ警察のモース主任警部が、その結び目をほどきにかかる一冊です。
著者について
著者はコリン・デクスター。モース主任警部を主人公とする連作で知られる書き手で、本書(原題 Death Is Now My Neighbour)は1996年に発表されました。
刊行元の惹句は、この作品を「現代本格ミステリの最高峰」と呼び、シリーズが「ついに佳境へ」入ったことを告げています。長く書き継がれた連作が終盤に差しかかって、なお最高峰と謳われる。
巻を重ねたシリーズは手つきが安定するぶん予定調和にも傾きがちですが、本作に寄せられた言葉はその予想を裏切ります。ここからが本番だと言わんばかりの構えで、読者は迎えられることになるのです。
舞台になるのは、学問の街の一角にある、ごくありふれた住宅地です。同じような家々が肩を寄せ合って並び、朝には同じ人が同じ時間に通りを歩いていく。
そういう場所で、ひとりの女性が血の海に横たわって発見されます。大学の学寮長選挙という、街のもっとも格式ばった行事が進行しているまさにそのとき、選挙とは縁もゆかりもなさそうな一角で人がひとり殺された。
テムズ・バレイ警察のモース主任警部が向き合うことになるのは、まずこの落差そのものです。
そして捜査の入り口に立ちはだかるのが、題名の指し示す「隣人」たちでした。一癖も二癖もある人々が、亡くなった女性のこと、あの家のこと、あの日のことを口々に語ります。
ところが集まってくる話は、少しずつ、しかし確実に食い違っている。誰かが嘘をついているのか、それとも見えていたものが人によって違うだけなのか。
隣に住むというのは、相手をいちばんよく知っている立場であると同時に、知っているつもりになりやすい立場でもあります。証言が増えるほど被害者の輪郭がかえってぼやけていく——捜査としては、これほど厄介な始まり方もありません。
やがて、その錯綜した証言の底から、思いもよらない筋が浮かび上がってきます。住宅地で起きた殺人と、大学の学寮長選挙。
まるで無関係にしか見えなかった二つの出来事が、意外なところで結び合っていたのです。読者はモースの手元にある断片だけを渡され、彼が立ち止まる場所でいっしょに立ち止まりながら、その線をたどっていくことになります。
ところが事件がもっとも込み入ってきたその矢先、モースは病に倒れてしまう。苦痛に耐えながら、それでも彼は真相への道を歩き続けます。
謎解きの緊張の上に、探偵自身の身体という別種の切迫が重なるのです。
読みどころ
読みどころは、事件の謎と探偵の危うさが、同じ一本の線の上を進んでいくところにあります。 錯綜する証言を一枚ずつ剥がしていく手つきは、地道な警察の仕事そのものです。
関係者の話を突き合わせ、矛盾の在り処を確かめ、必要ならまた最初に戻る。その反復が、大学という古い世界と、住宅地の平凡な日常とを少しずつ地続きにしていきます。
英国の警察小説らしい重厚さと、街そのものが抱えた年季の入った空気が、事件の陰影をいっそう濃くしている。しかも道半ばで探偵は健康を損ない、捜査は否応なく別の時間との競争になります。
真相にたどりつけるのか。たどりつく前に、この人はどうなってしまうのか。
二つの問いが並走するぶん、終盤へ向かう推進力は相当なものです。
もうひとつ挙げるなら、読み手に要求される集中の度合いでしょう。似たような話が少しずつ違う形で並べられ、どれが本当かはすぐには決まりません。
腰を据えて、誰が何をいつ語ったのかを頭の中で並べ替えながら読む——そういう読み方にきちんと応えてくれる小説です。刊行元が「現代本格ミステリの最高峰」と呼ぶだけの手応えは、この整理のしがいのある混沌のうちにあります。
向き不向きでいえば、事件の派手さや疾走感を第一に求める読者には、序盤の歩みはゆっくりに感じられるかもしれません。この作品の面白さは、証言を突き合わせ、街の人間関係を測り直していく過程の側にあるからです。
逆に、英国の警察小説が持つ落ち着いた重さを好む読者、大学と住宅地が肩を並べる街の空気ごと味わいたい読者、そして手がかりを自分で並べ替えながら読み進めるのが好きな読者には、迷わず薦められます。
手に取るなら
現在の版は早川書房のハヤカワ・ミステリ文庫。長く続いた連作が「ついに佳境へ」と謳われる地点に置かれた一冊です。
手に取ってこの主任警部の捜査に付き合ったなら、シリーズの前後の作品へ足を伸ばす楽しみも待っています。学寮長選挙に沸く街の片隅で、隣人たちの証言に囲まれた一つの死。
その謎に、病を得た警部が挑む。静かな住宅地を舞台にした一作らしく、この物語の緊張は最後まで声高になることがありません。