ミステリーとしての読みどころ
「10客のティーカップが並べられるだろう」。スコットランド・ヤードに届いたのは、たったそれだけの奇妙な予告でした。
指定された家を警察が固め、扉も窓も見張るなか、それでも予告どおりに人は死ぬ。厳重な監視の内側で、起きるはずのない死が起きる——本作『孔雀の羽根』が読者に差し出すのは、そういう謎です。
著者について
書き手はジョン・ディクスン・カー。のちに〈不可能犯罪の巨匠〉と呼ばれることになる作家です。
1906年、アメリカのペンシルヴェニア州に生まれ、1930年、予審判事アンリ・バンコランを探偵役とする『夜歩く』でデビューしました。以後、ギディオン・フェル博士を主役とする『帽子収集狂事件』『曲がった蝶番』、ノンシリーズの『皇帝のかぎ煙草入れ』と、密室と不可能状況を扱った作品を次々に発表し、熱狂的な読者を獲得していきます。
このカーには、もうひとつの筆名がありました。「カーター・ディクスン」です。
その署名のもとで彼が育てたのが、ヘンリ・メリヴェール卿——通称H・M卿を探偵とするシリーズでした。『黒死荘の殺人』『ユダの窓』といったオールタイム・ベスト級の傑作を含む一連の物語であり、本作『孔雀の羽根』もそのH・M卿ものの一編、1937年の発表です。
同じ書き手が名義を替えて磨き上げた、もう一つの代表作の系譜と言っていいでしょう。
物語の入り口
事件は、二年越しの因縁として立ち上がります。じつは、同じ内容の予告状が届くのは、これが初めてではありません。
二年前にも、よく似た状況で人が死んだ事件があり、そのときは真相にたどり着けないまま迷宮入りしていました。ふたたび届いた予告は、あの未解決の悪夢をなぞるかのような一文。
警察は同じ轍を踏むまいと、指定された空家を厳重な監視下に置きます。
そして、事は起こります。張り詰めた静けさを破ったのは、一発の銃声でした。
異変を察した刑事が室内へ踏み込むと、そこには若い男が倒れていました。名はヴァンス・キーティング。
傍らには、孔雀の模様をあしらったテーブル掛けと、予告のとおりに並べられた10客のティーカップ。何もかもが、二年前のあの事件をそっくり繰り返したかのようでした。
読者を捉えて離さないのは、その状況の理不尽さです。予告はあった。
だから警察は待ち構えていた。家の周りは固められ、出入りは見張られていた——にもかかわらず、現場に出入りした者は、死んだ被害者のほかに誰ひとりいないのです。
犯人はどこから来て、どこへ消えたのか。監視という安全網が、かえって謎を密閉してしまう。
読者は警察とちょうど同じ位置から現場を見つめ、「これはいったいどうやって起きたのか」という問いの前に立ち尽くすことになります。
そこへ、孔雀模様のテーブル掛けと10客のティーカップという、奇妙で意味ありげな道具立てが加わります。ただの殺害ではなく、何者かが入念に用意した一幕を見せられているような手触り。
予告どおりに死が訪れる恐ろしさと、その背後にある意図の見えなさとが絡まり合い、頁をめくる手を止めさせません。
読みどころ
この不可能状況に挑むのが、名探偵ヘンリ・メリヴェール卿です。 監視をすり抜けたとしか思えない死の謎に、H・M卿が正面から立ち向かいます。
老練な探偵の推理に身をゆだね、こんがらがった糸が一本ずつほどけていくさまを味わう。そういう古典的な謎解きの醍醐味を、本作は正面から差し出してくれます。
もうひとつ、本作を語るうえで欠かせないのがフェアプレイへの徹底ぶりです。終盤、H・M卿は「32の手掛かり」を数え上げて推理を組み立てるほど、真相の材料は読者の前に誠実に置かれていきます。
読者もまた、探偵と同じ手札で謎に挑める。後出しの事実で切り抜けるのではなく、初めからそこに置かれていた材料の組み合わせだけで解へ届く——その潔さが、この作品の背骨になっています。
読み終えて「あの一行がそうだったのか」と膝を打てる作りで、不可能犯罪ものの佳作として長く読み継がれてきました。
名探偵の推理に身を任せ、論理によって不可能が解体されていく快感を求める読者には、まっすぐ薦められる一冊です。逆に、心理の綾やスピード感のあるサスペンスを主軸に期待すると、謎そのものに重心を置いた古典の呼吸は、やや悠然と感じられるかもしれません。
それでも、予告・監視・不可能という舞台立てが放つ緊張は、時代を越えて古びていません。パズルの手応えをじっくり味わいたい夜にこそ開きたい物語です。
手に取るなら
現在手に取るなら、創元推理文庫の厚木淳訳です。厚木淳は東京創元社の編集部長を経て翻訳家となった人で、バローズの火星シリーズやクリスティ作品の訳し手としても知られます。
原題は The Peacock Feather Murders。The Ten Teacups の別題でも呼ばれてきました。
〈不可能犯罪の巨匠〉が筆名を替えて仕上げた予告殺人の一編として、黄金期ミステリの醍醐味を存分に味わわせてくれる一冊です。