現代国内 2001
赤シャツが自殺したと、
山嵐が知らせに来た。
『贋作『坊っちゃん』殺人事件』柳広司

書評

贋作『坊っちゃん』殺人事件

『坊っちゃん』の人物と文体を借り、赤シャツの死の真相を追わせる大胆なパスティーシュ。

贋作『坊っちゃん』殺人事件 表紙画像
柳広司 KADOKAWA(角川文庫)2001年
目次

赤シャツが死んだ。それも自殺だという。

松山を去って3年、東京で暮らす坊っちゃんのもとへ、山嵐がその知らせを持ってきます。夏目漱石が1906年に発表したあの小説の、その後。

柳広司『贋作『坊っちゃん』殺人事件』は、漱石が一人称で書いたあの語り手をもう一度松山へ送り返し、赤シャツの死の真相を探らせる長編です。第12回朝日新人文学賞を受けた、デビューの年の2冊目にあたります。

物語の入り口

坊っちゃんは、松山を離れて東京に戻っています。あの一学期の騒ぎから3年。

そこへ、山嵐が訪ねてきます。かつて松山の中学で同僚だった、あの数学教師です。

二人が再会するところから、この長編は動き出します。

山嵐が持ってきたのは、ひとつの知らせでした。教頭の赤シャツが自殺した、というのです。

松山にいたころ、坊っちゃんと山嵐がそろって敵に回した相手。その男が、自分で命を絶った。

知らせを受けた坊っちゃんは、山嵐とともに、もう一度松山へ向かうことになります。赤シャツの死の真相を探るために。

自殺、と山嵐は言います。けれども二人は、その一言で片づけず、現地で確かめようとする。

赤シャツは教頭、山嵐は数学教師と、どちらも原典と同じ肩書きのまま登場します。原典を読んだ人なら、その二人の名前だけで、あの中学の職員室の顔ぶれを思い出せます。

読んでいない人でも心配はいりません。松山で何があったのかは、坊っちゃん自身の口から順に語られます。

予備知識なしでも筋は追え、原典を知っていれば、あの小説の場面がもう一枚、下に透けて見える。二重写しの読書が、ここから始まります。

読者は、坊っちゃんの隣に立たされます。威勢のいい一人称の語り手が、3年ぶりに松山の町へ降り立つ。

3年前に自分の目に映ったものを、今度は別の目的で振り返らなければならない。中学の教師として過ごした一学期の記憶が、そのまま調べものの手がかりになるのかどうか——それを確かめるのも、この長編の楽しみのひとつです。

読みどころ

原典の一人称の語り手が、そのまま探偵の席に座ります。

坊っちゃんの性格は、原典で本人がさんざん語っています。読者がすでに知っているその性格が、本作ではそのまま推理の道具になり、同時に足かせにもなる。

柳広司は、その語り手の癖を借りて事件を組み立てました。誰がどの立場にいて、どこで誰とぶつかったか。

原典で読んだはずの事柄が、事件の材料として並べ直されていきます。原典を読んだ人には、坊っちゃんの見ていた松山が、もう一度、別の角度から立ち上がる。

読んでいない人には、明治の地方都市を舞台にした、癖の強い語り手による探偵小説として、そのまま楽しめる。どちらにも、それぞれの入り口が用意されています。

もうひとつは、「贋作」と自ら名乗った態度です。パスティーシュとは、原典の文体と人物を借りて、別の物語を書く手法のことです。

本作はその手法を、いちばん難しい形で使っています。坊っちゃんの一人称、あの威勢のいい語り口をそのまま引き受けているからです。

漱石の小説の続きを、その語り手の声で書く以上、原典と比べられることは避けられません。新人がその勝負を最初から引き受け、題名に掲げた。

古典を題材にした穏やかな文芸趣味の一冊を期待して開くと、その名前を借りた探偵小説の骨組みの硬さに戸惑うかもしれません。けれども、坊っちゃんが坊っちゃんのまま事件に向かうという、その一点を面白がれる人には、224ページの最後まで付き合える一冊です。

作品の背景

柳広司の小説家としての出発点は2001年3月、原書房から出た『黄金の灰』です。同じ年のうちに世に出たのが本作でした。

デビューから数か月で、舞台も時代もまるごと入れ替えている。素材の振れ幅は、最初期からすでに大きかったことになります。

第12回朝日新人文学賞を受賞しています。同じ回には小野正嗣「水に埋もれる墓」が並んでいます。

新人賞を、デビュー作ではなく2作目で取った形です。原典は、夏目漱石『坊っちゃん』。

1906年、『ホトトギス』第九巻第七号の附録として世に出た小説です。刊行から100年近くを経た古典の続きを、新人が、題名に「贋作」の二字を掲げて真正面から書いた。

その大胆さがまず目を引きます。版は2005年3月に集英社文庫、2010年11月に角川文庫へ移りました。

手に取るなら

現行版は角川文庫、224ページと薄く、ひと晩で読み切れる分量です。原典『坊っちゃん』は未読でも差し支えありませんが、先に読んでおくと、二重写しの面白さは大きく膨らみます。

反対に、こちらを読み終えてから『坊っちゃん』を開き直す順序でも構いません。柳広司をこれから読む人には、『黄金の灰』と並ぶ最初期の作品として、この作家の出発点を知る入り口にもなります。

赤シャツが死んだ、という知らせを、坊っちゃんと一緒に受け取ってみてください。

柳広司について

柳広司は1967年、三重県に生まれました。神戸大学法学部を卒業し、1998年に「挙匪(ボクサーズ)」で第4回歴史群像大賞の佳作に入ったのち、2001年に原書房から出た『黄金の灰』で小説家になります。

同じ年には『贋作『坊っちゃん』殺人事件』で第12回朝日新人文学賞を受けました。

初期の仕事の軸は、実在の人物や名作を借りて謎解きを組むことでした。シュリーマン、ソクラテス、マルコ・ポーロ、夏目漱石、シートンといった人々が、探偵役や事件の当事者として作中に呼びこまれます。

2008年の『ジョーカー・ゲーム』は陸軍のスパイ養成機関「D機関」を描いた連作で、翌年に第30回吉川英治文学新人賞と第62回日本推理作家協会賞をそろって受け、以後シリーズとして書き継がれました。歴史の枠組みに架空の事件を差し込む手つきは、スパイ小説に移ってからも変わっていません。

書誌情報

出版社
KADOKAWA / 角川文庫
刊行年
2001
ISBN-13
9784043829057
系譜
現代国内 / メタ本格
受賞歴

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リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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