ミステリーとしての読みどころ
一通の一斉メールから、すべては動き出します。地方の劇団を率いる名士が、幼い孫娘の難病を団員たちに打ち明け、治療費のための募金を呼びかける——善意そのものに見えるその呼びかけが、やがて人ひとりの死へとつながっていく。
『ポピーのためにできること』は、その顛末を関係者が残した文書だけで読者の前に積み上げ、真相の解読を読者自身の手に委ねる、ちょっと類のない謎解きミステリです。
著者について
著者ジャニス・ハレットにとって、本書はデビュー長編にあたります。原書は2021年に英国で刊行されるや大きな反響を呼び、サンデー・タイムズ紙はその年のベスト・ミステリーに選出。
タイムズ紙は「21世紀のアガサ・クリスティー」という惜しみない賛辞を贈りました。ABCシグネチャーがテレビドラマ化権を獲得していることからも、その注目のほどがうかがえます。
日本には2022年、集英社文庫の一冊として届きました。
物語の入り口
舞台は英国の小さな田舎町です。ここで一目置かれる地元の名士が、マーティン・ヘイワードという人物。
彼は町の劇団フェアウェイ・プレイヤーズを主宰し、次の公演に向けた準備が進む日常のなかにいます。ところがある日、彼が団員たちに宛てて送った一通の一斉メールが、その穏やかな日々にそっと亀裂を入れます。
二歳になる孫娘のポピーが、難病を患っている。高額な治療費のために、どうか力を貸してほしい——と。
メールを受け取った人々は、それぞれの思いを胸に動き出します。芝居の稽古と歩調を合わせるように、募金の輪が町へ広がっていく。
誰もが善意から手を差し伸べているはずのその活動が、しかしどこかで少しずつ、思いもよらない方向へ傾いていきます。そしてついに、この一件は人ひとりの死という取り返しのつかない悲劇を招くことになるのです。
ここで、本書のいちばんの趣向が姿を現します。物語は、地の文をいっさい持ちません。
読者の前に差し出されるのは、関係者どうしが交わしたメール、携帯のメッセージ、警察に残された供述調書、町の新聞記事——つまり、事件をめぐって残された「資料の山」だけです。何が起きたのかを整理して語ってくれる、そんな親切な案内役はどこにもいません。
あるのは、当事者たちがそれぞれの立場から書き残した、生の言葉の束だけ。誰かに宛てて打たれた一通のメール、事件のあとに交わされたやりとり、活字になって町を巡った記事。
手触りの異なるそれらの断片を、読者はその一枚一枚、順にめくっていくことになります。
そしてこの膨大な文書に向き合うのが、二人の法学生です。彼らは山と積まれた資料を一から読み解いていく。
読者は彼らの肩越しに、というより彼らと同じ地点に立って、同じ文面を目で追い、同じ疑問を抱えながら、少しずつ事件の輪郭へ近づいていくことになります。
読みどころ
この作品の醍醐味は、読者がまぎれもなく探偵の椅子に座らされるところにあります。 名探偵が最後にすべてを解き明かしてくれる、という安心はここにはありません。
判断の材料はことごとく文書という形で目の前に開かれていて、それをどう組み立てるかは読者に託されている。誰と誰がどうつながっているのか、事の経緯はどう流れていたのか——散らばった紙片を頭のなかで並べ替え、一枚の絵にしていく作業そのものが、この本のいちばんの楽しみです。
読み終えたとき、自分の足で真相までたどり着いた、という手応えが残ります。
「21世紀のアガサ・クリスティー」という評は、たんなる売り文句ではありません。手がかりを読者の前に対等に開き、フェアに解かせるという謎解きの精神を、メールと文書という現代の道具立てで鮮やかに蘇らせてみせた。
その手つきへの賛辞と受け取るのが、いちばんしっくりきます。古典的な本格の骨格が、まるで現代の日常そのままの装いで差し出されるのですから、新鮮でないはずがありません。
こんな人におすすめ
相性について正直に書いておくと、地の文のある小説にどっぷり浸る没入感を求める読者には、最初は少しとっつきにくく映るかもしれません。景色や心情を情感たっぷりに描き上げるタイプの物語ではなく、断片から自分で像を結んでいく読書だからです。
逆に、手がかりを前に頭を働かせるのが好きな人、受け身ではなく能動的に物語へ関わっていきたい人には、これ以上ないほど楽しい一冊でしょう。ページをめくる手が止まらなくなる中毒性は、多くの読者が口を揃えるところです。
手に取るなら
入手は集英社文庫版で、訳は山田蘭が手がけています。ハレットの記念すべきデビュー長編であり、その後の活躍の出発点となった一作でもあります。
書簡体・資料形式の謎解きという聞き慣れない趣向に、まずはここから触れてみるのにうってつけの代表作。文書だけで真相まで運んでくれるその筆力は、デビュー作とは思えないほどの安定感があります。
世界じゅうの読者を驚かせた新世代の謎解きが、どんなものなのか。その入り口として、これ以上ふさわしい一冊はなかなかありません。