ミステリーとしての読みどころ
ヨークシャーの荒野に、スターヴェルと呼ばれる陰気な屋敷が立っています。その屋敷が、ある一夜のうちに焼け落ちる——物語は、その焼け跡から立ち上がります。
灰の中から見つかったのは、当主と召使夫婦、あわせて三人の焼死体。事故として片づけられかけたこの惨事に、ごく微かな違和感だけを頼りとして、スコットランドヤードのフレンチ警部が足を踏み入れます。
著者について
F・W・クロフツは、黄金期の英国探偵小説を語るうえで欠かせない書き手の一人です。生まれはアイルランドのダブリン。
もともとは鉄道技師として働いていた人でした。ところが病を得て長い療養を強いられ、その静養の間に温めた構想から生まれたのが、デビュー作となる『樽』です。
1920年に世へ出たこの一作が好評を博し、以後『ポンスン事件』『製材所の秘密』『フローテ公園の殺人』と、着実に作品を積み重ねていきます。
やがて第五作『フレンチ警部最大の事件』で、のちに代名詞となる探偵——ジョゼフ・フレンチ警部が誕生しました。派手な閃きひとつで真相を言い当ててみせる、そんなタイプの名探偵ではありません。
事実をひとつずつ拾い集め、地道に、粘り強く真相へにじり寄っていく。その捜査の手触りこそがクロフツの持ち味であり、フレンチはその体現者でした。
『スターヴェルの悲劇』は、そのフレンチが活躍する初期の一編にあたります。原書の刊行は1927年、邦訳が創元推理文庫に収められたのは2017年のことでした。
舞台となるのは、ヨークシャーの寂しい荒野です。人里を離れたその一角に、スターヴェル屋敷はひっそりと建っていました。
陰気な、という言葉がそのまま似合う屋敷。そこに暮らしていたのは、当主と、彼に仕える召使の夫婦だけでした。
ある夜、その屋敷が炎に包まれます。炎はひと晩のうちに屋敷を舐め尽くし、夜が明けたころには、黒く焦げた残骸だけが荒野に取り残されていました。
焼け跡から見つかったのは三人の焼死体。さらに、屋敷の金庫に納められていた紙幣までもが、大量に灰と化していました。
人が三人死に、財産が灰になった——痛ましい出来事ではあるけれど、人里離れた屋敷を襲った不運な火事として、この一件は事故の側へ静かに片づけられようとします。荒野の一軒家で起きた惨事は、そのまま忘れ去られていくはずでした。
ところが、そこにたった一つ、どうにも拭いきれない小さな引っかかりが残りました。ほとんどの人が気にも留めずに通り過ぎてしまいそうな、ごく微かな疑問。
それをきっかけに、スコットランドヤードからフレンチ警部が呼ばれ、荒野の焼け跡へと足を運ぶことになります。
事故なのか、それとも放火殺人なのか。読者は、まだ何が起きたのかもはっきりしないこの焼け跡を前に、フレンチと肩を並べて立つことになります。
目の前にあるのは、崩れ落ちた壁と灰、そして三人の死。ここから何を読み取れるのか。
手がかりに乏しい荒涼とした現場から、フレンチの捜査は始まります。焦げくさい匂いの残る焼け跡を、警部は急ぐでもなく丁寧に検分し、わずかな痕跡から失われた一夜を組み立てようとします。
読者はその一歩目から、警部のかたわらでいっしょに考え込む位置に置かれるのです。
読みどころ
この作品の醍醐味は、華やかな見せ場ではなく、事実がひとつずつ積み上がっていくその過程そのものにあります。 フレンチは、奇跡のような閃きで真相を言い当てたりはしません。
人に会い、細部を確かめ、辻褄の合わない点を一つずつ埋めていく。その手続きの丹念さを、読者は捜査官のかたわらで追いかけることになります。
淡々としているようでいて、ばらばらの事実が少しずつ形をなしていく手応えは確かで、堅実な警察捜査小説の見本と評されてきました。
黄金期の探偵小説というと、密室や奇術めいたトリックの華やかさばかりが語られがちです。けれども、その一方には、地に足のついた捜査の物語を丹念に描く系譜がありました。
クロフツはその代表格の一人であり、本作はフレンチ警部の初期作として、その世界への手ごろな入り口にもなっています。
ページを繰る手が止まらない疾走感や、めまぐるしいスピード感を第一に求める読者には、本作の歩みはいくぶんゆっくりに映るかもしれません。捜査は急がず、事実は一歩ずつしか進んでいきません。
けれども、その一歩に律儀に付き合いながら、荒野の焼け跡から少しずつ輪郭が結ばれていくさまを味わえる人にとっては、これほど滋味のある時間もそうそうありません。腰を据えて、探偵といっしょにじっくり考え込みたい夜に似合う一冊です。
手に取るなら
いま手に取るなら、創元推理文庫の一冊が入り口になります。原書は1927年の発表。
その全篇が、この文庫版で日本語に訳されています。フレンチ警部が地道な足取りで謎に挑む物語はほかにも数多くあり、本作の手応えを気に入れば、同じ警部が登場する別の事件へと読み進めていく愉しみも待っています。
荒野の焼け跡から始まる、堅実で味わい深い捜査の物語。事実をこつこつ追う読書の充実感を求める方に、静かにおすすめできる一冊です。