黄金期英国古典 1931
漂うヨットに死体が二つ。
死後一時間、人影はない。
『英仏海峡の謎』F・W・クロフツ

書評

英仏海峡の謎

英仏海峡を漂うヨットの二死体。フレンチ警部が英仏を股にかけ消えた重役を追う。

英仏海峡の謎 表紙画像
F・W・クロフツ 東京創元社(創元推理文庫) 原書 1931年 · 邦訳 1960年
目次

英仏海峡の只中で、一隻のヨットが持ち主を欠いたまま波間を漂っています。ハッチと船室には、それぞれ男の死体。

しかも、その二人のほかに船の上には誰の姿もありませんでした。四方を海に囲まれ、逃げ場も隠れ場所もないはずの小さな船が、そっくりそのまま一つの密室になってしまう——『英仏海峡の謎』は、そんな途方もない状況を入り口に据えた、F・W・クロフツの海の捜査物語です。

物語の入り口

探偵役は、クロフツが生み出した名探偵、スコットランドヤードのフレンチ警部です。第五作『フレンチ警部最大の事件』で初めて世に出て以来、警部はクロフツ作品の顔として定着していきました。

ひらめき一つで一足飛びに真相へ届く天才型ではなく、確かめられた事実を一つずつ地道に積み上げていく——その捜査の手触りこそが、フレンチ警部という探偵の身上です。

物語は、穏やかな海の上から幕を開けます。英仏海峡を、フランスへ向けて一隻の定期連絡船が進んでいく。

バカンスの季節とあって、船は行楽客で満員のチチスター号です。甲板は解放感に沸き、これから訪れる異国を思い描く人々の声で賑わっていたことでしょう。

ところが、その航路の先に、進路を斜めに横切るようにして漂う小さな影が現れます。持ち主の意思をまるで感じさせない、あてどない漂い方をした一隻の小型遊覧ヨット。

何かがおかしい、という胸騒ぎとともに、連絡船はその船へ近づいていきます。

そうして見えてきたのは、行楽の海にはおよそそぐわない光景でした。ヨットのハッチには、頭を撃たれた男の死体。

船室には、さらにもう一人の男の死体が横たわっています。どちらも息絶えてから、まだ一時間ほどしか経っていません。

そして何より薄気味の悪いことに——この二人のほかに、ヨットの中には誰一人としていなかったのです。海の上には身を隠す物陰も、こっそり岸へ渡る抜け道もないというのに。

四方を波に囲まれた小さな一隻が、そっくりそのまま出口のない密室になってしまっている。しかも死んでいたのは、たまたま乗り合わせた行楽客ではなく、ある証券会社の社長と副社長でした。

凪いだ海の上に取り残された二人の死は、いったい何を意味するのか。この謎の解明に乗り出すのが、スコットランドヤードのフレンチ警部です。

手がかりに乏しい海上の現場を相手に、警部は例によって、足元の確かな事実から一つずつ調べを進めていく。それは、処女作『樽』にも通じる、海を舞台にした地道な捜査劇の幕開けでした。

読みどころ

本書の面白さは、何より「密室が海に浮かんでいる」という着想の鮮やかさにあります。 密室と聞いて思い浮かぶのは、鍵のかかった一室や、雪に囲まれた山荘といった、きっちり閉ざされた空間でしょう。

ところがクロフツが用意したのは、扉も壁もない、開けっ放しの海の上です。それでいて、誰も出入りできたはずのない完璧な閉ざされ方をしている。

この開放と密閉の同居が、事件に独特の落ち着かなさを与えています。だだっ広い海の真ん中に、逃げ場のない不可能状況がぽつんと浮かんでいるのです。

もう一つの読みどころは、その謎に向き合うフレンチ警部の手つきそのものにあります。天才の一閃を待つのではなく、確かめられる事実を辛抱強く重ねていく運びは、読者を派手に驚かせるより先に、じわじわと現場のほうへ引き寄せていく。

気がつけば、警部の肩越しに手元をのぞき込むようにして、次に何が明らかになるのかを一緒に待っている——そんな、共に捜査するような読み心地が、この作品にはあります。

こんな人におすすめ

派手なアクションや疾走感を求めて開くと、この一歩ずつの運びはもどかしく映るかもしれません。本書が差し出すのは、事実が少しずつ集まっていく過程を、探偵とともにゆっくり味わう楽しみだからです。

逆に、手続きを踏みしめながら真相へにじり寄っていく、腰を据えた謎解きが好きな読者であれば、これほど誂え向きの一冊もそうそうありません。海と船という舞台立てに心惹かれる方、黄金期ミステリの落ち着いた薫りを味わいたい方にも、安心しておすすめできます。

作品の背景

本書『英仏海峡の謎』は、フレンチ警部が海峡を舞台に動く一編で、原書は1931年に発表されました。

手に取るなら

日本語では、創元推理文庫の井上勇訳で読むことができます。訳者の井上勇は1901年、広島県の生まれ。

東京外国語学校に学んだ翻訳家です。クロフツはフレンチ警部を探偵役として多くの長編を書き継ぎ、著書は『クロイドン発12時30分』ほか多数にのぼります。

まずはこの海の一編から、事実を丹念に積み上げていく英国流の捜査の味わいに触れてみるのも、悪くない入り口になるはずです。

F・W・クロフツについて

F・W・クロフツは1879年にアイルランドのダブリンで生まれ、1957年に亡くなりました。アルスター地方で育ち、同地で鉄道技師として働いていましたが、40歳のころ病を得て長い療養を強いられ、その間に書いた『樽』が1920年に世へ出て評判を呼びます。

以後も技師の仕事を続けながらほぼ年に1作のペースで長編を発表し、50歳で職を退いてからは作家業に専念しました。

第5作『フレンチ警部最大の事件』で生まれたフレンチ警部が、以後の長編を通じての探偵役です。天才的なひらめきではなく、足を使った聞き込みと裏づけを積み重ねてアリバイを崩していく作風で、黄金期の英国探偵小説のなかでも写実を重んじる書き手として知られます。

犯人の側から描いた『クロイドン発12時30分』も代表作に数えられます。

書誌情報

出版社
東京創元社 / 創元推理文庫
原書刊行年
1931
邦訳刊行年
1960
ISBN-13
9784488106096
系譜
黄金期英国古典 / 警察手続き · シリーズ探偵物

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この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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