ミステリーとしての読みどころ
会った者のほとんどが、ひと目で好きになってしまう——そんな男が一人います。投資会社ライノクスの社長、フランシス・ザヴィアー・ベネディック、通称F・X。
この人好きのする実業家をめぐって、黄金期英国ミステリのなかでもとびきり変わった趣向の一編が組み上がっていきます。フィリップ・マクドナルドが遊び心のかぎりを尽くした、実験的な佳品です。
著者について
作者フィリップ・マクドナルドは、名探偵アントニイ・ゲスリンを世に送り出した黄金期英国の書き手。ただ、その経歴には妙にとらえどころのないところがあります。
なにしろ、生まれた年からしてはっきりしません。ロンドンで生を受けたのが11月5日であることは伝わっているのに、それが1891年なのか、1896年か、あるいは1899年か1900年か——四つの候補が並んだまま、ひとつに定まらない。
1931年にはアメリカへ渡り、脚本家としても腕をふるいました。私生活はいっさい表に出さず、1980年に世を去っています。
作品は残っても、素顔は霧のなか。そんな書き手でした。
本作『ライノクス殺人事件』は、その看板であるゲスリンの力を借りずに書かれた一編です。名探偵の推理を追う王道からあえて外れ、構成そのものに趣向を凝らした——マクドナルドの稚気がまっすぐ形になった実験作と言っていいでしょう。
原書が世に出たのは1930年。長らく愛書家のあいだで語り継がれてきた稀少な佳品が、創元推理文庫の新訳でようやく手に取りやすくなりました。
投資会社ライノクスの中心には、いつもF・Xがいます。会えばたいていの人間が惹きつけられ、その場の空気ごと明るくしてしまうような男。
理屈で好かれるというより、居るだけで周囲が上機嫌になってしまう——そういう得な星のもとに生まれた人物です。商売の顔であり、人を束ねる求心力そのものでもある。
ところが、この誰からも好かれる男に、ただ一人だけ例外がいました。マーシュという男です。
マーシュはF・Xに、消えることのない恨みを抱き続けています。誰もがひと目で好きになる男に、ただ一人だけ牙を剥く者がいる——その一点だけで、二人の関係にはどこか据わりの悪い緊張が漂います。
根深い確執は、もはや放ってはおけないところまで来ている。そしてある日、決着をつけるための面談の約束が交わされます。
場所はF・Xの自宅、時刻は夜。誰からも慕われる社長と、彼ひとりをひたすら憎み続けてきた男とが、いよいよ差し向かいで向き合う夜が訪れるのです。
その夜、F・Xの自宅で、時ならぬ銃声が響きます。
役者と道具立ては、これで出そろいました。誰からも愛される男、その唯一の敵、決着を約した一夜、そして一発の銃声。
読み手はいわば、開幕早々にこれだけの手札を配られたプレイヤーの位置に立たされ、さあこの断片がどう噛み合っていくのかと、盤面を見渡すことになります。配られた手札は、けっして多くない。
それでも一局ぶんの面白さを約束するには、それで十分。マクドナルドが差し出してくるのは、深刻ぶった謎ではありません。
あくまで、こちらの知恵をくすぐりにくる遊戯としての謎なのです。
読みどころ
本作の醍醐味は、事件そのものよりも、それを語るマクドナルドの手つきにあります。 この作品が採っているのは、「結末で始まり発端に終わる」という、およそ逆さまの順序。
ふつうなら幕切れに置かれるはずの場面から幕を開け、ふつうなら発端に置かれるはずの場面で幕を下ろす——そんな人を食った段取りを、作者はいかにも楽しげに操ってみせます。物語をどう並べれば読者がいちばん面白がるか、その一点に知恵を絞り抜いた、まるでゲームのような一冊なのです。
そして、これだけ凝った企てを扱いながら、語り口はどこまでも軽やかで洒脱。もったいぶった深刻さとは無縁で、頁をめくる手はするすると先へ進みます。
読み終えて残るのは、重い澱ではなく、上質な遊びに付き合ったあとのような心地よさ。稚気とはこういうものかと、しみじみ得心させてくれる後味です。
コレクター垂涎とうたわれてきたのも、この洒脱さゆえでしょう。
ですから本作は、謎解きを一種の知的な遊戯として味わいたい読者に、とりわけよく響きます。凝った構成の妙に唸らされたい人、短めの佳品をきりりと楽しみたい人にも打ってつけ。
逆に、どっしりした心理劇や、社会の陰影をじっくり掘り下げるようなミステリを求めていると、この身のこなしの軽さは少し物足りなく映るかもしれません。ここで味わえるのはあくまで、洒脱で人を食った"遊び"としての面白さです。
手に取るなら
いま手に取るなら、創元推理文庫の新訳が確実です。巻末には臼田惣介による解説も付きます。
長くコレクター垂涎とされてきた稀少な一冊。こうして気軽に読めること自体が、ちょっとした僥倖と言えるかもしれません。
マクドナルドの代表シリーズであるゲスリンものとは毛色の違う、彼のいたずらっ気がまるごと詰まった変わり種。黄金期英国ミステリの、ひと味ちがう表情に出会いたいときにこそ薦めたい、洒脱な実験作です。