ミステリーとしての読みどころ
書斎で殺されていたのは、時の大蔵大臣。そして凶器は、その場に転がった一本の鑢でした。
木材の表面を削るための、どこの仕事場にもありそうな平凡な道具です。国政の中枢にいた人物の死と、あまりに不釣り合いなその凶器。
ちぐはぐな取り合わせから、『鑢』という物語は静かに動きだします。発表は一九二四年。
のちに英国黄金期の本格を支えることになる一人の作家が、この一編で長編作家としての第一歩を踏み出しました。
著者について
著者フィリップ・マクドナルドは、その経歴からして謎めいた人物です。ロンドンに生まれたことは分かっているものの、生年は一八九一年、一八九六年、一八九九年、一九〇〇年のいずれか、としか伝わっていません。
私生活の一切を明かさなかったために、確かな生年すら後世に残さなかった——そんな作家なのです。一九三一年にはアメリカへ渡り、脚本家としても腕をふるいました。
歿したのは一九八〇年。その長い執筆人生の出発点に置かれたのが本作であり、同時にこれは、名探偵アントニイ・ゲスリンが読者の前に初めて姿を見せた記念すべき一作でもあります。
事件の第一報を、誰よりも早くつかんだのは一枚の新聞でした。〈梟〉紙。
「大蔵大臣ジョン・フード殺害さる」——国政を担う要人が命を奪われたという知らせは、それだけで国じゅうを揺るがすに足る大事件です。その特種をいち早く押さえた同紙は、続報を、いや事件そのものの真相を追うために、一人の男を現地へ送り込みます。
派遣されたのは、事件を報じる記者ではありません。アントニイ・ゲスリン大佐。
第一次世界大戦を英雄として戦い抜き、明晰な頭脳の持ち主として知られる人物です。
ここに、本作ならではの調査の構図が立ち上がります。警察の捜査が動くのと並行して、新聞社に託されたゲスリンが、いわば特派員のように現場へ分け入っていく。
組織を背負った刑事でもなく、依頼人から報酬を受け取る私立探偵でもない、その中間の宙ぶらりんな立場から、彼は事件に向き合います。新聞という公の目を背にした探偵という枠組みは、この殺人を私的な謎解きにとどめず、世間の耳目を集めた公の出来事として立ち上げます。
読者はゲスリンの肩ごしに、殺害の起きた書斎をのぞき込み、彼が拾い上げていく事実を一つずつ受け取っていくことになる。
現場には、手がかりが一つ残されていました。凶器の鑢に付いた、ある容疑者の指紋です。
凶器があり、そこに指紋が刻まれている——警察がこれを逮捕の決め手と見たのも当然でしょう。ゲスリンもまた、現場から拾い上げられた事実の一つひとつを検分しながら、真相の奥へと静かに分け入っていきます。
派手な立ち回りに頼るのではなく、確かめられる事実と論理だけを一段ずつ積み上げていく——それが、この名探偵の流儀です。
読みどころ
本作の眼目は、たどり着いた真相が、最後に一篇の「新聞記事原稿」として読者の前に掲げられる、その構成にあります。 客観的なデータと論理的な考察を一段ずつ積み上げた原稿の形で、事件の結論は差し出されます。
読者は、まるでその記事を手にした〈梟〉紙の一読者のような位置から、証拠から結論へと至る筋道を追うことになる。手がかりを読者と分け合い、論理だけで白黒をつけるフェアな謎解きの精神が、この見せ方にはくっきりと表れています。
一九二四年という早い時期に、これほど端正な論理の提示を実現していたことには驚かされます。
そしてこの理詰めの物語には、忘れがたい彩りが添えられています。マザーグースの調べです。
よく知られた童謡の響きが全体に流れ込み、乾いた論理の骨組みに、どこか不穏で叙情的な陰翳を与えている。無機質になりがちな証拠と推理の連なりに、耳になじんだ歌のひとふしが差し込まれると、物語はふっと表情を変えます。
理と情、その二つが同じ一冊のなかで響き合っているところに、本作ならではの味わいがあります。
名探偵の推理をじっくり味わいたい読者、とりわけ黄金期本格の「はじまりの空気」に触れてみたい読者には、まっすぐ薦められる一冊です。証拠を一つずつ検討し、論理だけで真相へ迫っていく——その正攻法の醍醐味が、ここには詰まっています。
逆に、息もつかせぬ速さや現代的な語り口を求めて開くと、一九二〇年代の生真面目な運びは、少しゆっくりに感じられるかもしれません。ただ、その落ち着いた歩みこそ、名探偵と読者が知恵をぶつけ合うために整えられた舞台です。
腰を据えて向き合えば、費やした時間が無駄になることはありません。
手に取るなら
現在手に取るなら、創元推理文庫版(吉田誠一訳)です。訳者の吉田誠一は、カー『死時計』やマシスン『名探偵群像』などを手がけた英米ミステリの翻訳家。
本作は名探偵アントニイ・ゲスリンが活躍するシリーズの第一作にあたり、ここから彼の探偵譚が始まります。一人の作家の、そして一人の名探偵の出発点に立ち会える一冊。
黄金期英国本格の源流をたどるうえで、記念碑的な意味を持つ作品です。