まだ計画しただけなのに。
探偵が早すぎる
犯行計画を立てただけの段階で名探偵が現れ、事件を未然に見抜いてしまう。井上真偽が2017年に講談社タイガから上下2巻で出した倒叙ミステリ。
推理小説の名探偵は、ふつう遅れてやってきます。死体が見つかり、関係者が顔をそろえ、取り返しのつかないことがすべて済んだあとで、ようやく推理が始まる。
井上真偽『探偵が早すぎる』は、その順番を題名の段階で手放してしまった物語です。殺人者が完全犯罪の計画を立てた、ただそれだけの段階で、名探偵がもう目の前に立っている。
犯人の側から語られる倒叙ミステリの形をとった、上下2巻の長編です。
物語の入り口
物語は、ひとりの殺人者の側から動き出します。まだ誰も死んでいません。
あるのは、見破られないように細部まで詰めた犯罪計画だけです。段取りを詰め、疑いの向きそうな先を消し、手がかりが残りそうな隙間をひとつずつ塞いでいく。
紙の上では、完全犯罪の設計図がもう出来上がっています。
罪を企てる側の目線から語り起こすのは、倒叙と呼ばれる形式の、定石どおりの幕開けです。読者は計画を練る者の机の脇に座らされ、誰にも気づかれないはずの段取りが、一枚ずつ積み上がっていくのを眺めることになる。
見破られないための工夫が細かければ細かいほど、それが崩れる瞬間への期待もふくらみます。
ところが、その計画はまだ実行されていません。凶器も死体もないうちに、名探偵のほうが先に姿を見せるのです。
誰かに呼ばれた気配もなく、事件の起きていない場所に探偵が立っていて、殺人者に向かってこう告げます。「キミ、殺そうとしてるよね?」問いかけの形をとってはいても、その口ぶりに迷いはありません。
たったひと言で、殺人者が周到に組み上げた計画に穴が開きます。凶器ひとつ振るわれていないうちに、殺人者はもう見抜かれた側へ回されているのです。
殺す側の周到さと、見抜く側の早さ。二つの速度がぶつかったところで、上巻の頁がめくられていきます。
読みどころ
題名が示すのは、事件より先に探偵が着いてしまうという、推理の順番そのものの組み替えです。
探偵小説の推理は、起きてしまった出来事を材料にするのが普通です。現場があり、遺体があり、証言がそろってはじめて、探偵は過去へ向かって考えを進める。
この作品の探偵が相手にするのは、まだ起きていない出来事、つまり殺人者の頭の中にしかない計画です。事件の前に立つ探偵と、事件を起こそうとする犯人が、同じ時間の中で向かい合う。
倒叙という形式の見慣れた配置が、題名のひと言で別の盤面に置き直されています。探偵の推理が、過去の再構成ではなく、これから起きることの読み当てになる。
その一点だけで、見慣れた型がまるで違う遊びに見えてきます。
もうひとつは、語り口の軽さです。殺人を企てる話でありながら、全体はコメディの調子で進み、登場人物のやりとりにも笑いの間がある。
計画を練る側が真剣であればあるほど、そこへ先回りしてくる探偵の軽いひと言との落差は大きくなり、張りつめた空気がそのまま可笑しさに裏返ります。完全犯罪を夢見る者の必死さと、それを事もなげに言い当てる者の気安さ。
この取り合わせが、そのまま作品の手ざわりになっています。犯行計画という物騒な題材を扱いながら、頁の上で前に立つのが緊張より可笑しさのほうだという点に、この作品のいちばん独特な味わいがあります。
こんな人におすすめ
企む者と見抜く者の知恵比べ——それも事件が起きる前の知恵比べ——という風変わりな趣向を面白がれる読者に向いています。重苦しい殺人劇より、軽口の飛び交う読み心地を楽しみたい人にもなじむはずです。
逆に、陰惨な事件の重みや、一行ごとに張りつめた緊迫を求めて開くと、その軽さが物足りなく映るかもしれません。とはいえ、その軽さこそが、この奇妙な設定を最後まで笑って読ませる推進力になっています。
作品の背景
『探偵が早すぎる』は、2017年に講談社タイガから刊行されました。2015年のデビューから数えて3年目の作品にあたります。
翌2018年には日本テレビ系列で連続ドラマになり、滝藤賢一と広瀬アリスが主演を務めました。上巻の刊行から数えて、1年ほどでの映像化です。
手に取るなら
講談社タイガ版の上下2巻で読めます。上巻が2017年5月、下巻が同年7月の刊行で、どちらもKindle版が出ています。
分冊なので、上巻を読み終えたところで下巻が手元にあると安心です。2018年の日本テレビ系列のドラマ版を先に観た人も、原作では活字ならではの語りの間合いが味わえます。
完全犯罪の計画を立てたその場に現れる、早すぎる探偵の手並みを見届けてください。
井上真偽について
井上真偽は神奈川県の出身で、東京大学工学部を卒業しています。『恋と禁忌の述語論理』で第51回メフィスト賞を受け、2015年1月の同作の刊行でデビューしました。
数理論理学で名探偵の推理を検証するというデビュー作の趣向が示すように、推理の手続きそのものを物語の中心に据えてきた書き手です。
同じ2015年に始まった〈その可能性はすでに考えた〉シリーズでは、奇蹟を証明しようとする探偵がありうる説明を一つずつ否定していく論戦を描き、続編『聖女の毒杯』は「本格ミステリ・ベスト10」の国内1位に選ばれました。2017年の『探偵が早すぎる』は翌年に連続ドラマになっています。
その後も『ベーシックインカム』『アリアドネの声』、姉妹編と兄弟編の二冊で始まった〈ぎんなみ商店街の事件簿〉と、題材を変えながら書き継いでいます。
書誌情報
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