ミステリーとしての読みどころ
たまたま隣の席から流れてきた、たったひとつの会話。それだけを頼りに、一人の男が「これから犯罪が起きる」と確信する――ロンドンの喫茶店から動き出す『Xに対する逮捕状』は、そんな心もとない一点を起点にした物語です。
差し出せる証拠は、何ひとつありません。あるのは、聞いてしまったという事実と、胸をざわつかせる予感だけ。
この宙ぶらりんな不安を抱えたまま、読者は主人公とともに、誰も信じてくれない世界を歩き出すことになります。
著者について
作者フィリップ・マクドナルドは、その私生活のほとんどが謎に包まれた作家です。ロンドンで生まれたことは分かっていても、生年すら定かでなく、1891年、1896年、1899年、1900年と説が分かれています。
1931年にアメリカへ渡ってからは脚本の世界でも腕をふるいましたが、1980年に世を去るまで、自分自身についてはほとんど何も語り残さなかった人物。そんなマクドナルドがミステリの書き手として名を刻んだのが、名探偵アントニイ・ゲスリンを主役に据えたシリーズです。
本書『Xに対する逮捕状』は、原書が1938年に世に出た、そのゲスリンものの後期を飾る一冊。マクドナルドの代表作に数えられ、「名探偵ゲスリン最高の事件」とまで評される作品です。
物語の主人公は、シェルドン・ギャレットという名のアメリカ人劇作家です。自作の芝居がロンドンで上演されることになり、彼は海を渡ってこの街に滞在していました。
齢三十四。芝居の合間の、これといって予定のない日曜の午後のことです。
ギャレットはちょうど、G・K・チェスタトンの最高傑作ともいうべき一冊に巡りあったばかりでした。その本に背中を押されるように、彼はノッティング・ヒル界隈をあてもなく歩き回ります。
散策の途中でふらりと立ち寄った、一軒の喫茶店。そこでギャレットは、隣の席の女二人が交わす会話を耳にしてしまいます。
それは、どうやら犯罪の謀議としか思えない――そんな不穏な響きを帯びたやり取りでした。放ってはおけない。
そう感じた彼は、とっさに会話の主を尾行しようとします。ところが尾行はあえなく失敗。
しかも、これから何かが起きるという予感を誰かに伝えようにも、まともに取り合ってくれる相手が、どこにも見つからないのです。
無理もありません。彼の手元にあるのは、偶然聞いてしまった断片的な言葉だけ。
証拠と呼べるものは、何ひとつないのですから。読者もまた、ここでギャレットの心細さを分かち合うことになります。
何かが起きようとしているという確信と、それを誰にも証明できないもどかしさ。その板挟みのなかで、ようやく彼の話に真剣に耳を傾けたのが、名探偵アントニイ・ゲスリンでした。
ゲスリンとの面談を経て、女の身許はいったん判明します。けれども、その行方は杳として知れない。
やがて関係者のうちに死が生じ、ギャレット自身も思わぬ災難に見舞われるなど、行く手はいよいよ困難を極めていきます。
読みどころ
読みどころは、たった一片の立ち聞きから、犯罪の輪郭が論理の力で立ち上がってくる過程にあります。 手がかりと呼べるものは、はじめほとんど何もありません。
その乏しい断片を一つひとつ吟味し、根気よく積み重ねて、企みの正体へと迫っていく。ゲスリンの推理が描く筋道は、そうした地道な論理の運びに貫かれています。
とりとめのない断片から、少しずつ全体像がせり上がってくる。その手つきの鮮やかさこそ、本書が「論理的な謎解き」と称えられるゆえんです。
同時に本書は、すでに起きてしまった罪を解く物語ではなく、まだ起きていない犯罪を食い止めようとする物語でもあります。何かを企てる側と、それを防ごうとする側。
時間との競争をはらんだこの構図が、謎解きに絶えず張り詰めた緊張を与えています。興味深い発端から緊迫の終局まで、無駄なく、そして巧みに運ばれていく小気味よさ。
黄金期の薫りをまといながらも、静かな安楽椅子の謎解きとは一味違う、動きのあるサスペンスに仕上がっています。
古典的な名探偵ものの手ざわりを楽しみたい読者、そしてわずかな手がかりが論理によって像を結んでいく過程に惹かれる読者には、まっすぐ薦められる一冊です。犯罪を未然に防げるのかという切迫が物語を引っ張るぶん、事件が起きてから静かに謎を解くタイプの作品よりも、追う側と追われる側の緊張感を味わいたい人に、とりわけ響くでしょう。
逆に、のんびりした空気のなかで謎とだけ向き合っていたい読者には、この張り詰めたテンポが少し気ぜわしく映るかもしれません。けれど、その緊迫こそが本書の持ち味。
合う人には、深く刺さる一作です。
手に取るなら
いま手に取るなら、創元推理文庫版(2009年)です。原書の刊行は1938年。
巻末には戸川安宣による解説も収められています。名探偵アントニイ・ゲスリンが活躍するシリーズの後期作にあたりますが、シリーズを追ってきた読者はもちろん、「マクドナルドの代表作」「ゲスリン最高の事件」という評判を確かめてみたい読者にとっても、申し分のない一冊になってくれるはずです。