ミステリーとしての読みどころ
オックスフォードの運河沿い、ジェリコと呼ばれる一角。あるパーティの席で意気投合し、また会おうと約束を交わしたばかりの女性が、数ヶ月後、自宅で亡くなって見つかります。
知り合ったばかりの相手の、あまりに唐突な死。その報せを受け取る側に立たされるところから、『ジェリコ街の女』は静かに動き出します。
派手な幕開けではありません。けれど、日常の続きのような場所にぽつりと空いた欠落こそが、この物語の重心になっていきます。
著者について
作者はコリン・デクスター。オックスフォードを舞台に、モース主任警部を主人公とする連作で英国ミステリを代表した書き手です。
論理を緻密に組み立てるパズラー寄りの作風で知られ、本作は1981年に発表されたモースシリーズの第5作にあたります。この一冊は前作に続いてCWA(英国推理作家協会)のシルバー・ダガー賞を受賞——シリーズを重ねながら賞を連続で射止めたという事実が、当時の評価の高さを何より雄弁に語っています。
さらにのちには、ジョン・ソウ主演で国民的な人気を得たテレビドラマ「モース警部」の、記念すべき第1話の原作にも選ばれました。長い映像シリーズが最初の一歩としてこの作品を選んだこと自体が、物語としての完成度を裏づけています。
映像を通してモースを知った人にとっても、すべてはここから始まっていたわけです。
物語の起点は、一つの出会いです。モース主任警部がジェリコ街に住むアン・スコットと出会ったのは、あるパーティの席でした。
言葉を交わすうちにすっかり意気投合した二人は、近いうちにまた会おうと約束を交わして別れます。刑事とひとりの女性が、事件の当事者としてではなく、ただの知り合いとして向き合った——その何気ない一夜が、この物語の入り口になっています。
仕事の外側で結ばれかけた、ささやかな縁。だからこそ、そのあとに訪れるものが、いっそう重く響くことになります。
ところが数ヶ月後、その約束が果たされることはありませんでした。アンは、ジェリコの自宅で亡くなって発見されます。
当初、その死は首吊りによる自殺と見なされました。事件の匂いはどこにもなく、書類の上では、ひとりの女性の不幸な死として片付けられてもおかしくない状況です。
周囲の誰もが、痛ましくはあっても収まるべきところに収まった話として受け止めようとする——そんな空気が、静かにその場を包んでいます。
けれどもモースだけは、その結論にどうしても納得がいきません。知り合ったばかりの相手だからこその引っかかりか、それとも刑事としての勘か。
理由をうまく言葉にできないまま、彼は相棒のルイス部長刑事とともに、この死のまわりを一つずつ確かめ始めます。アンがどんな人物で、どんな日々を送り、誰と関わって生きていたのか。
運河沿いの細い道と古びた家並みが、その足取りを静かに縁取ります。そして調べを進めるうちに、アンの家の近所で、今度は紛れもない殺人事件が起こります。
静かなジェリコの一角に、ふたつの死が並び立つことになるのです。読者は、モースの抱いた小さな違和感の側に立たされたまま、彼と一緒にこの街の陰影を覗き込んでいくことになります。
読みどころ
本作の魅力は、閃きではなく執念で謎に向かう警察小説の手触りにあります。 一目で真相を見抜く天才ではなく、腑に落ちない一点を手放せない刑事が、地道な確認を積み重ねながら事件の輪郭を描き直していく。
その過程そのものが読ませどころです。デクスターは、街の人々に話を聞き、細部を照らし合わせていく捜査小説の呼吸を保ちながら、その裏で手がかりを精密に配置してみせます。
証言を集め、一つずつ事実を確かめていく過程が、そのまま謎の輪郭をたどる作業になっているのです。舞台となるオックスフォードの街並みや運河沿いの空気も、単なる書き割りにとどまらず、物語の温度をかたちづくっています。
緻密な論理と土地の情感が、ひとつの捜査のなかで静かに溶け合っているのです。
一撃の大トリックや息もつかせぬ急展開を第一に求める読者には、モースの歩みはやや地味に映るかもしれません。この作品の愉しみは、派手な見せ場よりも、疑問を手放さない刑事の思考に寄り添う時間の側にあります。
逆に言えば、その一歩ずつの手応えを楽しめる人にとっては、ページを繰るごとに事件の像が結ばれていく確かな充実があります。じっくりと腰を据えて謎解きを味わいたい読者、英国の警察小説やパズラー寄りのミステリを好む読者、そしてオックスフォードの街の空気ごと事件に浸りたい読者には、安心して薦められる一冊です。
手に取るなら
現在の版はハヤカワ・ミステリ文庫(邦訳1993年刊)。シリーズの第5作ですが、映像化の起点にも選ばれた代表作だけあって、ここから〈モース警部〉の世界に足を踏み入れても十分に楽しめます。
シリーズのどこから読み始めようか迷っている人にとっても、確かな入り口になるはずです。気に入れば、そこからモースとルイスが挑む前後の事件へと、そのまま歩を進める愉しみが待っています。