ミステリーとしての読みどころ
河からあがった一体の死体。その状態は、あまりにひどいものでした。
身元を語る材料はほとんど残されておらず、頼りになるのはポケットにあった一通の手紙だけ。行方不明の大学教授——モース主任警部はそう見当をつけ、ただちに捜査へ踏み出します。
ところが、やがて当の教授から手紙が届くのです。自分は生きている、と。
ならば、河からあがったのは誰なのか。『謎まで三マイル』は、この素朴で厄介な一問を物語の真ん中に据えた長編です。
著者について
作者はコリン・デクスター。本作は1983年に発表された、モース主任警部を主人公とするシリーズの一冊にあたります。
警察が組織として事件に向き合う枠組みの内側で、謎解きの興趣を最後まで手放さない。その両立こそがこのシリーズの背骨であり、英国ミステリーの中でも独特の重さと律儀さを帯びた読み味を生んでいます。
捜査を担うのは、職務としてその場に立つ警察官たち。それでいて読者に差し出されるのは、まぎれもなく謎解きの快楽です。
「現代本格の騎手」による、謎また謎の傑作本格。本作に添えられてきたのは、そういう強気な評です。
謎また謎、とはよく言ったもの。ひとつの問いに答えが見えかけたところで、その先にまた別の問いが立ち上がる——そういう構えの物語であることが、刊行の時点から堂々と宣言されていたことになります。
日本では早川書房のハヤカワ・ミステリ文庫に収められ、発表から四十年あまりを経たいまも手に取れる位置にあります。
物語の入り口
物語は、河からあがった死体の発見から動き出します。両手と両足ばかりか、首までが切断されていた——捜査陣の前に置かれたのは、そこまでの仕打ちを受けた亡骸ひとつ。
人の身元をたどる手がかりは、たいてい体そのものに宿っています。顔、背格好、身につけていたもの。
それらがまとめて奪われてしまえば、捜査は名前のない死者を前に立ち尽くすほかありません。手元に残されたのは、ポケットにあった一通の手紙だけでした。
その手紙が指し示していたのは、行方不明になっていた大学教授でした。モース主任警部は死体をその教授のものと考え、ただちに捜査を開始します。
死者にひとつ名前が与えられれば、捜査は一気に形を持つ。その人はいつから姿を消していたのか、どこで何をしていたのか、誰と会うことになっていたのか。
問うべきことが並び、当たるべき先が見えてくると、事件はひとまず骨組みを得たように思えてきます。読者もまたモースの肩越しに、その教授という一点を見据えながらページを繰っていくことになるでしょう。
ところが、やがて事件は驚くべき展開を見せます。当の教授から、自分は生きていると書かれた手紙が来るのです。
たった一通の便りで、組み上がったばかりの前提が足元から揺らぎ出す。いったい、殺されたのは誰か。
捜査の出発点として与えられていたはずのものが、そのまま最大の問いへと裏返ってしまいました。追うべき死者の名を手放したまま、それでも捜査だけは前へ進めなければならない。
懸命に捜査を続けるモースが引き受けたのは、そういう厄介な仕事です。
読みどころ
読みどころは、事件の土台そのものを揺らしてみせる大胆な設計にあります。 多くの物語では、死者の名は捜査が始まる前に与えられるものです。
誰が死んだかがわかっているからこそ、なぜ・どのようにという問いへ進んでいける。本作はその最初の一段を持ち去り、空いた穴をそのまま謎の中心に据え直しました。
足場だと思って踏んだ床板が、実は問いそのものだった。読者はその居心地の悪さを抱えたまま、モースの捜査に付き合うことになります。
宙づりの一問を胸に置いて考え続けたい人には、こたえられない構えでしょう。
その大胆さを受け止めているのが、警察小説としての手堅い足取りです。捜査は手続きを踏んで進み、確かめられたことだけが静かに積み上がっていく。
地に足のついた歩み方だからこそ、宙づりのままの一問はいよいよ重くなります。声を張り上げる演出を用いないまま、じわじわと圧を強めてくる小説。
1983年の作でありながら、謎の立て方の切れ味はいまも少しも鈍っていません。
こんな人におすすめ
相性でいえば、息もつかせぬ速度で押し切る物語を求める読者には、本作の歩幅はゆったりと感じられるかもしれません。分かれ目は、事実の確認を一段ずつ重ねていく英国流の捜査に、その時間ごと付き合えるかどうか。
逆に、謎の形そのものに驚かされたい読者、英国の警察小説の重厚な空気を丸ごと味わいたい読者、そして読みながらずっと頭を回していたい読者にとっては、待った甲斐のある一冊になるはずです。
手に取るなら
現在の版は早川書房のハヤカワ・ミステリ文庫。モース主任警部を主人公とするシリーズの一冊ですが、本作が差し出す謎はこの一冊の中でくっきりと立てられていますから、ここを入り口にしても構いません。
同じ警部の登場する他の作品へ手を伸ばす楽しみは、読み終えてからでも遅くはないでしょう。「いったい、殺されたのは誰か」——その素朴で厄介な問いに、まずは正面から付き合ってみてください。