ミステリーとしての読みどころ
顔にドーランを塗り、民族衣装をまとった奇妙な死体。オックスフォードにあるホテルの別館で撲殺されていたその男は、仮装大会の優勝者でした。
扮装をほどこされたまま息絶えた人物が何者なのか、それを教えてくれるものは、どこにも残されていません。『別館三号室の男』が差し出すのは、犯人の見当がつかないという以前に、殺された男その人の輪郭からして定まらない——そういう種類の難事件です。
著者について
作者はコリン・デクスター。本書(原題 The Secret of Annexe 3)は1986年に発表された、モース主任警部を主人公とする人気シリーズの第七作にあたります。
日本では早川書房のハヤカワ・ミステリ文庫に収められてきました。事件の舞台はオックスフォード。
その街の空気の中で、警察の手続きにのっとった捜査が一歩ずつ積み上げられていきます。組織として動く警察小説の重みと、シリーズ探偵が事件の像を組み替えていく推理の切れ味、その二つが同じ一冊に同居しているのが本書の骨格です。
シリーズの第七作にあたる一冊が、その骨格を受け持っています。
物語の発端は、ホテルの別館です。そこでは仮装大会が催され、ひとりの男が優勝を飾りました。
その男が、別館の一室で撲殺死体となって発見されます。顔にはドーランが塗られたまま、身には民族衣装をまとったまま。
祝祭のための扮装と、むき出しの暴力とが、同じ部屋に並んでいる。この第一報の絵面からして、すでにただごとではありません。
捜査に乗り出したモース主任警部が、まず突き当たるのが身元の壁です。被害者は偽名で宿泊していました。
そのうえ、身元を示すものをいっさい持っていなかったのです。名前がわからなければ、来歴もわからない。
来歴がわからなければ、誰と関わり、誰に憎まれていたのかもわからない。殺人捜査がふつう最初の一歩として立つ場所が、この事件では初めから抜け落ちています。
しかも死者の顔はドーランに覆われ、装いは日常から遠く隔たっている。人物を特定する足がかりになるはずの外見までもが、扮装の下に沈んでいるのです。
さらに厄介なことがあります。同じ別館の宿泊客が、被害者の妻も含めて、一人残らず姿を消していたのです。
事件のとき、その建物にいたはずの人々。彼らが何を見て、何を聞いたのか——捜査の常道でいえば真っ先に話を聞くべき相手が、まとめていなくなっている。
見知らぬ男女が集うホテルという場は、互いの素性を知らないまま一夜を共にできる場所でもあります。名を偽ることも、消えてしまうことも、そこではことのほか容易い。
人の気配の絶えた別館の廊下に置き去りにされたような心細さとともに、読者はモース主任警部の捜査に付き合っていくことになります。
読みどころ
この作品の読みどころは、捜査の出発点そのものが奪われている、その一点にあります。 死者の名も、周囲の証言者も、事件のときの目撃も、初手ではまるで手に入りません。
多くのミステリーが「与えられた手がかりをどう読むか」を競う競技だとすれば、本書はその手前、「手がかりと呼べるものをどう手に入れるか」から始まります。空白を埋めていく作業が、そのまま謎解きの作業になっている。
読み手のほうも、断片が出そろうまでは推理の足場を持てません。だからこそ、ひとつの事実が確かめられるたび、それまで頭の中に描いていた見取り図が音を立てて組み替わる感触があります。
頭をフル回転させながら読みたい人ほど、この手応えは深く効いてくるはずです。
もうひとつ挙げるなら、事件の奇矯さと捜査の手堅さの落差です。ドーラン、民族衣装、仮装大会、偽名、そして消えた宿泊客——並べれば芝居がかった道具立てですが、それを引き受ける側は、あくまで警察の仕事として粛々と手順を踏んでいきます。
この温度差が、物語に独特の緊張を生みます。英国のホテルという閉じた空間に漂う湿り気や、捜査陣のやりとりに滲む生活の手触りも、事件の解決とは別に味わうべきものでしょう。
こんな人におすすめ
相性でいえば、冒頭から事件が畳みかける物語や、短時間で駆け抜ける軽快さを求める読者には、序盤の手詰まりぶりがもどかしく映るかもしれません。この一冊の時間は、警察の捜査の速度に忠実に流れます。
乏しい情報のまま人を探し、確かめ、また探す。その反復に付き合う気持ちのある読者にとっては、視界がひらけてくる過程そのものが報酬になります。
謎の提示の奇抜さと、それを解きほぐす手続きの重厚さを、同じ一冊で両方味わいたい人に向いた作品です。英国の警察小説の呼吸を、腰を据えて楽しみたい向きにも迷わず薦められます。
手に取るなら
現在の版はハヤカワ・ミステリ文庫(早川書房)。人気シリーズの第七作にあたりますが、事件は一冊で完結しており、ここから読み始めても置いていかれることはありません。
むしろ、扮装した死体と消えた宿泊客という強烈な入り口を持つ本書は、モース主任警部の仕事ぶりに触れる最初の一冊としても十分に働きます。気に入ったなら、同じシリーズの他の作品へ進む楽しみがそのまま待っています。