ドローン一台で救えるか。
アリアドネの声
ドローン一台と6時間だけを武器に、声の届かない相手を助け出す救出劇。
見えず、聞こえず、話せない人を、声も手も届かない場所からどうやって救い出せばいいのでしょうか。井上真偽『アリアドネの声』は、その問いに六時間という期限をつけて差し出す物語です。
巨大地震に揺さぶられた地下都市、じわじわと迫る浸水、そして救助の頼みの綱はたった一台のドローン。遠く離れた場所で機体を操る者と、地の底に取り残されたひとりの女性——その隔たりが、物語の幕開けから張りつめています。
物語の入り口
発端は、巨大地震です。揺れが襲ったのは、地下に築かれた都市でした。
その地下で、ひとりの女性が遭難します。揺れのあとの地下のどこかに人が取り残されている、というだけで、救助は時間との勝負になります。
まずは、その居場所を見つけ出すところから始めなければなりません。
これだけでも救助は難しいはずですが、条件はさらに重なります。彼女は「見えない、聞こえない、話せない」という三つの障害を抱えていました。
救助の現場でふつう頼りにされるのは、名前を呼ぶ声であり、姿を探す目であり、助けを求める叫びです。そのどれもが、この女性とのあいだでは行き交いません。
救う側が呼びかけても応える声はなく、彼女のほうからも居場所を知らせるすべがない。人を助けるという行為が、ここでは最初の一歩から手探りになります。
頼みの綱は、一台のドローンだけです。その操縦を任されたのが、ハルオでした。
与えられた任務は、遠く離れた場所から要救助者を見つけ出し、安全地帯まで導くこと。機械一台を介して、意思の通じにくい相手を安全な場所まで連れていく、前例のない作戦です。
救う側の手に残された道具は、その一台だけという心もとなさです。
そして、時間は限られています。地下には浸水が迫り、猶予は六時間。
この刻限を過ぎれば、女性の行く末は「脱出か、死か」の二つに一つ。その緊張を背負ったまま、作戦は始まります。
読者はハルオの背後に立たされ、残り時間を頭の片隅で数えながら、地の底にいる見えない相手へ思いを凝らすことになります。
読みどころ
読みどころは、刻限の重さと意思の届かなさという二つの壁が、最初から同時に課されている点にあります。
時間制限のある救出劇は珍しくありませんが、多くの場合、救う側と救われる側は言葉を交わし、互いの状況を伝え合うことができます。この作品では、その前提がはじめから取り払われています。
六時間という刻限が一秒ごとに減っていく一方で、相手の居場所も状態も、ふつうのやり方では確かめられない。急がなければならないのに、急ぐための手がかりが乏しい。
この二重の締めつけが、物語全体に独特の緊迫を与えています。
もうひとつは、設定そのものが読む側の想像を強く揺さぶることです。見えない、聞こえない、話せない。
その三つを重ねたとき、地震に見舞われた地下の暗がりや迫る水の気配は、取り残された当人にどう感じられるのか。題材の段階で、救う側の焦りと同じだけ、救われる側の置かれた状況へも思いを向けずにはいられなくなります。
頭上を地面にふさがれ、水がじわじわと迫ってくる地の底に、見えず、聞こえず、話せない人がひとりでいる。舞台が地下都市であることが、その想像をいっそう切実なものにしています。
こんな人におすすめ
一刻を争う救出劇、刻限つきのサスペンスが好きな読者に、まず向いています。人が人を助けようとする物語に心を動かされてきた人にもなじむでしょう。
反対に、地震や浸水といった災害の描写がつらい人には、読み進めるのに覚悟が要るかもしれません。それでも、見えず、聞こえず、話せない相手を、一台のドローンだけで安全な場所まで導けるのか——六時間という刻限のなかで積み重なるその問いは、最後まで読み手の手を離しません。
作品の背景
2023年の年末、この作品は国内ミステリのランキングに軒並み名を連ねました。「このミステリーがすごい!」2024年版で国内5位、週刊文春ミステリーベスト10でも2023年の国内5位、「ミステリが読みたい!」2024年版では国内6位。
翌2024年には第21回本屋大賞で19位に入り、第77回日本推理作家協会賞では長編および連作短編集部門の候補に挙がっています。
刊行は2023年6月、幻冬舎からの書き下ろしでした。単行本が出てから半年ほどで、その年の暮れのランキングに名前が並んだことになります。
手に取るなら
いま手に取るなら、2025年9月11日に出た幻冬舎文庫版があります。定価は825円です。
2023年6月に幻冬舎から出た単行本で読むこともできます。見えず、聞こえず、話せない女性と、一台のドローンを握る操縦士。
二人を隔てる地下の距離と、刻々と減っていく六時間——その行方を、息を詰めて追いかけてください。
井上真偽について
井上真偽は神奈川県の出身で、東京大学工学部を卒業しています。『恋と禁忌の述語論理』で第51回メフィスト賞を受け、2015年1月の同作の刊行でデビューしました。
数理論理学で名探偵の推理を検証するというデビュー作の趣向が示すように、推理の手続きそのものを物語の中心に据えてきた書き手です。
同じ2015年に始まった〈その可能性はすでに考えた〉シリーズでは、奇蹟を証明しようとする探偵がありうる説明を一つずつ否定していく論戦を描き、続編『聖女の毒杯』は「本格ミステリ・ベスト10」の国内1位に選ばれました。2017年の『探偵が早すぎる』は翌年に連続ドラマになっています。
その後も『ベーシックインカム』『アリアドネの声』、姉妹編と兄弟編の二冊で始まった〈ぎんなみ商店街の事件簿〉と、題材を変えながら書き継いでいます。
書誌情報
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