醒めても殺人の容疑者。
アリスの国の殺人
夢で出会うアリスと現実の殺人に挟まれた青年が、謎めいた読書へ誘います。
綿畑克二は、新しいコミック雑誌の創刊準備に追われ、厳しい編集長に絞られる日々を送っている編集者です。ある晩、なじみのスナック「蟻巣」で寝入ってしまい、夢の中でアリスという少女に出会います。
辻真先『アリスの国の殺人』は、その眠りをきっかけに、二つの世界で同時に殺人の容疑をかけられてしまう男の物語です。夢では結婚式のさなかにチェシャ猫殺しの疑いをかけられ、目が醒めれば現実でも嫌疑が待っている。
1982年に第35回日本推理作家協会賞を受けた長編です。
物語の入り口
主人公の綿畑克二が勤めるのは、これから新しいコミック雑誌を立ち上げようという編集部です。創刊の準備は慌ただしく、克二は編集長の厳しい注文に追われながら日々をやり過ごしています。
そんな彼にとっての仕事帰りの止まり木が、行きつけのスナック「蟻巣」です。店の名前からして、どこか物語めいた響きがあります。
ある日、その店で眠りこけてしまったことから、物語は思いもよらない方向へ転がり始めます。
眠りの中で、彼は美少女アリスと出会います。アリスやチェシャ猫といった、ルイス・キャロルの物語でおなじみの名前が並ぶ世界です。
やがて二人は結婚式を挙げることになる。ところが、晴れの式のさなかにチェシャ猫が殺され、花婿はその犯人と疑われて逃げる身になります。
祝福される側から、一転して追われる側へ。夢の中の出来事とはいえ、当人にとっては逃げ場のない切実な窮地です。
ようやく目が醒めると、今度は現実の側で事件が待っていました。あの厳しい編集長が殺されていて、彼はこちらの世界でも犯人ではないかと疑われるのです。
夢でも追われ、現実でも疑われる。どちらの世界でも、自分の無実を自分で証明しなければならない立場に置かれます。
こうして彼は、二つの世界で事件の真相を追うことになります。
編集部の喧騒と、スナックのカウンターと、アリスのいる世界。まるで性質の違う三つの場所を行き来する男のすぐ隣に、読者は立たされます。
二つの殺人の容疑を背負ったまま、この編集者がどこから手をつけるのか——その第一歩から、謎解きが動き出します。
読みどころ
夢と現実の両方で容疑者にされる男の、二重の窮地が物語を引っ張ります。
一つの世界で濡れ衣を着せられるだけでも、主人公は十分に追い詰められます。それが二つの世界で同時に起こる。
花婿の晴れ姿から一転してチェシャ猫殺しの容疑者へ、スナックでの居眠りから覚めれば編集長殺しの容疑者へ。災難の重ね方にはどこか可笑しみがあり、軽妙な筆致が、深刻な状況を読み進める足どりを軽くしています。
窮地が重なるほど、主人公の奮闘に肩入れしたくなる作りです。
もうひとつは、舞台にコミック雑誌の編集部が選ばれていることです。『鉄腕アトム』から『Dr.スランプ アラレちゃん』まで、長く漫画やアニメの世界と仕事をしてきた著者が、創刊前の雑誌編集部という現場を物語の出発点に据えています。
創刊を控えた編集部の慌ただしさ、編集長の厳しさ、仕事明けに寄るスナック——主人公の日常はどれも具体的な職場の風景で組み立てられていて、そこからアリスのいる世界へ踏み込んでいく落差が、この物語の最初の驚きになっています。
夢の世界が舞台の一つになるので、足が地に着いた捜査小説を求める人には、とりとめなく映るかもしれません。ただ、夢の側でも現実の側でも、主人公が追っているのは事件の真相です。
こんな人におすすめ
ルイス・キャロルの物語に親しんできた人、奇妙な設定の中で筋道を立てていく推理小説を楽しめる人に向いています。『たかが殺人じゃないか』で辻真先を知り、その前の仕事をたどりたい人にも、入り口として手頃です。
一方で、写実的な警察小説の手ざわりを求める人には、夢の世界を行き来する設定が合わないでしょう。
作品の背景
第35回日本推理作家協会賞の長編賞を1982年に受けたのが、この『アリスの国の殺人』です。刊行は前年の1981年です。
辻真先が1972年に『仮題・中学殺人事件』でミステリ作家としてデビューしてから、10年目の受賞にあたります。
手に取るなら
現在手に取るなら、2021年7月刊の徳間文庫新装版です。1981年の初刊から40年を経て、装いを改めて書店に戻ってきた版です。
夢でも現実でも追われる綿畑克二の災難に、スナック「蟻巣」のカウンターの端から付き合ってみてください。
辻真先について
辻真先は1932年、愛知県の生まれです。名古屋大学を卒業して1954年にNHKへ入り、制作進行や演出の現場を経験したのち、『鉄腕アトム』『サザエさん』『デビルマン』『Dr.スランプ アラレちゃん』など、アニメや特撮の脚本家として幅広く活躍しました。
ミステリ作家としては1972年の『仮題・中学殺人事件』でデビューし、1982年に『アリスの国の殺人』で第35回日本推理作家協会賞を、2009年には名前のアナグラムである牧薩次の名義で出した『完全恋愛』で第9回本格ミステリ大賞を受けています。叙述の仕掛けを凝らした実験作から、トラベルミステリやユーモアミステリまで作風は幅広く、2019年には第23回日本ミステリー文学大賞に選ばれました。
2020年、88歳で刊行した『たかが殺人じゃないか 昭和24年の推理小説』は、年末の主要ミステリランキング3誌でそろって国内1位になっています。
書誌情報
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