ミステリーとしての読みどころ
スコットランドヤードの敏腕警部が、犯人を追う最中に負傷し、病院のベッドに縛りつけられる。動けない、退屈でたまらない。
ところが天井を睨むばかりのその日々から、四百六十年の時を隔てた「事件」の再捜査が、静かに立ち上がっていきます。捜査の道具は、足でも証言でもなく、一冊の歴史書。
『時の娘』は、探偵が動かないことをそっくり逆手に取った、稀有なミステリです。
著者について
作者のジョセフィン・テイは、本名をエリザベス・マッキントッシュといいます。1896年、スコットランド北部ハイランドのインヴァネスに生まれ、教師や体育指導者として働いたのち、1929年にゴードン・ダヴィオット名義で『行列の男』を発表して、作家としての歩みを始めました。
このダヴィオット名義では、1932年初演の戯曲『ボルドーのリチャード』を残しています。扱われたのはリチャード2世——のちに本作で正面から向き合うことになるイングランド王朝史への関心は、すでにこの頃から芽生えていました。
グラント警部を主人公とするシリーズの第5作にあたるのが、この『時の娘』です。刊行は1951年。
その翌年、テイはロンドンで癌のため世を去ります。生前に発表された最後の長編がこの一冊だった——そんな経緯もまた、作品にいっそう特別な佇まいを与えています。
物語の入り口
物語はいたって静かに幕を開けます。舞台はロンドンの病室。
スコットランドヤードのアラン・グラント警部は、任務のさなかに負った怪我のせいで、身動きの取れないままベッドに横たわっています。天井のひび割れを数えることにも飽き、見舞いの品にも気が晴れない。
そんな彼のもとを、女優の友人マータが訪れます。退屈のあまり不機嫌になっている警部に、彼女がひとつの思いつきを持ち込む。
歴史上の人物を描いた肖像画を何枚か差し入れて、「顔から人となりを読む」という警部得意の観察眼を、その静止した顔たちへ向けさせようというのです。
積まれた肖像画の一枚に、グラントの目が吸い寄せられます。描かれているのは、イングランド王リチャード3世。
シェイクスピアの史劇でもおなじみの、「ロンドン塔に幽閉した幼い王子たちを手にかけた残虐な王」として語り継がれてきた人物です。ところが警部の目に映るその顔は、通説とはまるでそぐわない。
むしろ穏やかで、思慮深く、どこか苦労人めいてさえ見えるのです。長年、数えきれない被疑者の顔と向き合ってきた刑事の勘が、ここで妙な引っかかりを覚える。
この顔の男が、本当にあれほどの非道を働いたのだろうか。
こうして、前代未聞の捜査が始まります。現場も、目撃者も、物証もない。
あるのは四百六十年前に幕を閉じた出来事と、それを書き残した無数の文献だけ。ベッドから動けない警部は、この歴史上の「事件」を、刑事が生身の事件に挑むのとまったく同じ手つきで洗い直しにかかります。
見舞いに通う女優マータに加え、大英博物館で古い資料を掘り起こしてくれる若いアメリカ人研究者ブレント・カラディンが助手役に加わり、リチャード3世の時代に書かれた一次史料と、その王朝が倒れたのちのテューダー朝以降に綴られた歴史記述とが、丹念に突き合わされていく。安楽椅子探偵ならぬ「ベッド探偵」の、机上ならぬ枕上の推理行です。
読みどころ
本作のいちばんの妙味は、本格ミステリの思考法が、そっくりそのまま歴史の読み直しへ持ち込まれるところにあります。 証言はどこまで信じられるのか。
伝聞と一次資料はどう区別すべきか。動機と機会は揃っているのか。
刑事が現代の殺人事件で働かせる論理を、テイは十五世紀末の謎へ丸ごと差し向けます。学校の授業で「習ったつもり」になっていた歴史が、刑事の目で読み直されると、途端に別の相貌を帯びてくる。
その検証の過程を、読者はグラントのすぐ隣で、同じ資料を覗き込むようにして追いかけることになります。教科書の記述を鵜呑みにしてきた自分の足元が、読み進めるほど怪しくなってくる。
その心地よい眩暈こそ、本作の醍醐味です。
解くべき謎は、いま起きたばかりの殺人でなくてもいい——本作はその発想を、ミステリの歴史に鮮やかに刻み込んだ作品でもあります。1990年、英国推理作家協会(CWA)が選んだオールタイム・ミステリ・ベスト100で、堂々の第1位に輝いた一冊。
半世紀を越えて読み継がれてきた事実そのものが、その完成度を静かに裏づけています。
謎解きの論理を、生身の事件から遠く離れた場所で味わってみたい読者に、本作はまたとない贈り物になります。派手なアクションや、二転三転するスリルを求めて開くなら、静かに文献を繰るこの物語はもどかしく映るかもしれません。
とはいえ、歴史ものと身構える必要はありません。予備知識のない読者も、グラントとともに一から調べ直していける作りになっていて、「知っていたはずのこと」が足元から揺らいでいく感覚は、むしろ前提を疑うことそのものの面白さです。
手に取るなら
現在は、ハヤカワ・ミステリ文庫の小泉喜美子訳で手に取れます(早川書房)。グラント警部シリーズの一編ではありますが、本作単独できれいに完結しているので、ここから読み始めても不足はありません。
動かない探偵という究極の形式に、歴史ミステリと前提崩しの妙を一つに束ねた、古典の名にふさわしい一作です。