報酬は一円も増えない。
スイッチ 悪意の実験
押しても押さなくても報酬が同じスイッチを、大学生たちが一カ月持ち歩かされます。
押しても押さなくても、受け取る金額は変わりません。潮谷験『スイッチ 悪意の実験』は、その取り決めひとつの上に夏休みの一カ月を組み上げた物語です。
舞台は大学生のアルバイトで、日当は1万円、勤めあげれば100万円のボーナスがつきます。仕事の中身は、スイッチを持って暮らすことだけ。
2021年に第63回メフィスト賞を受けた、著者のデビュー作です。
物語の入り口
大学生の箱川小雪は、夏休みに友人たちとあるアルバイトに参加します。条件は、スイッチを持って1カ月暮らすこと。
それだけで日当が1万円支払われ、勤務を終えれば100万円のボーナスが手に入ります。依頼主は、「純粋な悪」を研究課題にしている心理コンサルタントです。
アルバイトの実体は、その研究のための実験への協力でした。参加者のスマートフォンには、そのためのアプリが入れられます。
夏休みの小遣い稼ぎにしては、ずいぶん風変わりな仕事です。
スイッチが何をもたらすかは、はっきりしています。押せば、参加者とは何の関わりもなく幸せに暮らしている一家が破滅する。
ところが報酬の側から見ると、押しても押さなくても、1カ月後には同じ100万円が手に入ります。押したところで、得るものは何もありません。
損得の帳尻は、始まる前から合っているのです。
「誰も押すわけがない」。参加者の誰もがそう考えていました。
押す理由は、報酬の面からはどこにも見当たりません。しかし小雪は、やがて思い知らされることになります。
想像を超えた、純粋な悪の存在を。
日当1万円に、勤務終了後の100万円。数字だけを並べれば、学生にとっては願ってもない夏の仕事です。
その報酬と引き換えに手渡されるのが、押せば見知らぬ一家を破滅させるスイッチでした。小雪と友人たちは、それを手元に置いたまま夏休みを暮らしていくことになります。
読者は、損得の計算がすでに済んでしまった地点に、参加者たちと並んで立たされます。
読みどころ
読みどころは、「誰が得をするか」という推理の常道を、開始の時点で封じてしまう設定にあります。
ふつうなら、事件の背後で利益を得る者をたどることが、容疑者を絞る足がかりになります。ところがこの実験では、押しても押さなくても報酬は同じです。
利益から人を割り出す手順は、最初から使えません。残る材料は、参加者の言葉と振る舞い、そして一カ月の過ごし方だけ。
動機という欄が空白のまま、推理を組み立てることを求められる——突飛な舞台装置に見えて、進め方は理詰めの本格ミステリです。
もうひとつは、一カ月という期間の置き方です。決着がその場でつかないぶん、参加者には迷う時間、話し合う時間、相手の様子をうかがう時間が生まれます。
スイッチは手元にあり続け、押すかどうかの選択は日ごとに持ち越されていく。期間の長さそのものが、設定の一部として働いています。
一日で終わる実験であれば生まれなかったはずの時間が、この物語には最初から組み込まれている——そう言い換えてもよいでしょう。
題名に掲げられた「悪意」は、依頼主が研究課題とする「純粋な悪」と響き合う言葉です。損得で説明のつく悪なら、実験の条件がはじめから締め出しています。
得も損もない取り決めの上で、悪意がどんな形をとるのか。副題の「悪意の実験」は、その問いをそのまま名乗っています。
こんな人におすすめ
「誰が得をするか」という手がかりが使えない状況で組み立てられる、理詰めのミステリを読みたい人に向きます。設定の奇抜さに惹かれる人にも、推理の筋道を重んじる人にも、それぞれの入り口がある作品です。
メフィスト賞の受賞作を追いかけている人や、作家をデビュー作から順に読みたい人にとっても、潮谷験を読み始める最初の一作になります。
作品の背景
潮谷験は2021年4月、この作品で第63回メフィスト賞を受け、同じ月に講談社から単行本が出てデビューしました。デビュー作の反響は、ミステリの専門媒体の外にも及びました。
TBS系「ひるおび」や朝日新聞の「売れてる本」をはじめ、各メディアで取り上げられています。2022年9月15日には講談社文庫版が刊行され、その文庫版は10万部を超えています。
単行本の刊行から1年半ほどで文庫に入り、手に取りやすい形になった作品です。
手に取るなら
いま手に取るなら講談社文庫版で、A6判、定価968円です。2021年の8月には2作目『時空犯』が講談社から出ており、デビューの年に続けて刊行された2作を並べて、著者の歩みを追うこともできます。
まずは夏休みの一カ月を、スイッチを渡された学生たちのすぐ隣で過ごしてみてください。
潮谷験について
潮谷験は1978年、京都府の生まれです。大学で東洋史学を専攻したのち、2021年に『スイッチ』(刊行時に『スイッチ 悪意の実験』と改題)で第63回メフィスト賞を受けてデビューしました。
その後は『時空犯』『エンドロール』『あらゆる薔薇のために』『ミノタウロス現象』『伯爵と三つの棺』『名探偵再び』『誘拐劇場』と、ほぼ毎年のように新作を発表しています。押しても押さなくても報酬の変わらないスイッチをめぐる心理実験、千回近く繰り返される一日、フランス革命期のヨーロッパの小国と、作品ごとに舞台や設定を大きく変え、そのなかで筋の通った推理を組み立ててみせる書き手です。
『伯爵と三つの棺』は2025年に本格ミステリ大賞、日本推理作家協会賞、吉川英治文学新人賞の候補に挙がりました。日本推理作家協会の会員で、本格ミステリ作家クラブにも所属しています。
書誌情報
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