恩師の新妻を見て青ざめた。
依存
指導教授の新しい妻は、彼の実の母だった。その告白から始まる匠千暁シリーズの長編です。
指導教授の家に招かれた夜のことです。安槻大学に通う匠千暁は、仲間とともに白井教授宅の客となり、そこで教授が長年連れ添った妻と別れ、最近になって再婚していたことを初めて知らされます。
紹介された新しい夫人は、まだ三十代。若々しく、妖しい魅力をたたえた人でした。
その顔を見た千暁が、青ざめます。西澤保彦『依存』は、この一瞬から始まる長編です。
2000年に幻冬舎から刊行され、翌年の「本格ミステリ・ベスト10」で国内7位、「このミステリーがすごい!」で国内8位に入りました。
物語の入り口
匠千暁シリーズの舞台は安槻大学で、レギュラーは四人です。匠千暁、通称タック。
高瀬千帆、通称タカチ。辺見祐輔、通称ボアン。
羽迫由起子、通称ウサコ。
場面は、白井教授の自宅です。安槻大の千暁ら仲間七人が、教授に招かれてそこにいます。
学生が指導教授の家に呼ばれる、それ自体はありふれた集まりでしょう。呼ばれた側にしてみれば、教授の離婚も再婚も私事であり、聞かされたところで祝いの言葉をひとつ返せば済むはずの席でした。
ところがその席で、一同は初めて聞かされます。教授は最近、長年連れ添った妻と離婚し、再婚していた。
そして新しい妻が、客の前に姿を見せます。まだ三十代。
若々しく、妖しい魅力をたたえた女性です。
その人を見て、千暁の顔から血の気が引きます。その席で彼が告げたのは、こういうことでした。
あの人は自分の実の母である。そして自分には、彼女に殺された双子の兄がいた。
物語は、この告白から動き出します。母、双子の兄、殺された、という三つの語が、教授宅の居間に一度に置かれる。
教授にとっては新しい妻、千暁にとっては実の母。同じ一人の女性が、居間の両側から別の名で呼ばれることになります。
何が起きたのか、それはいつのことなのか、告白のどこまでが事実なのか——この時点では、何ひとつわかりません。
祝いの言葉ひとつで済むはずだった教授宅の一夜に、千暁の一言が落とされました。教授は新しい妻を紹介したばかりで、夫人は客を迎える側として居間に立っている。
仲間たちは、教授の私事を聞かされに来ただけの客です。その全員が、同じ告白を同じ部屋で耳にしたことになります。
読者は、教授宅の居間で同じ言葉を聞かされた客の一人として、千暁の横顔を見つめる位置に据えられます。
読みどころ
読みどころは、探偵役自身の過去が、仲間の目の前で事件として開かれるところにあります。 匠千暁シリーズは、安槻大学の四人が集まり、酒の席の与太話をいつのまにか論理の応酬に変えていく連作です。
その千暁が、今回は語られる側に回ります。告白の相手は警察でも探偵でもなく、いつもの仲間です。
同じ席にいた六人は、聞いてしまった以上、聞かなかったことにはできない。事件が外から持ち込まれるのではなく、輪の内側から立ち上がる。
その構図が、この巻に固有の緊張を与えています。
もうひとつは、厚みです。文庫で638ページ。
文庫としてはかなりの厚みで、手に取ったときの重みがそのまま読書時間の長さとして返ってきます。この巻が描くのは愛と欲望の絡む犯罪で、紙幅はそれに見合ったものでしょう。
愛と欲望は、一晩の推理で割り切れる題材ではありません。教授宅で置かれた三つの語を、時間をかけてほぐしていく——その長さ自体が、この巻の読み味です。
密室やアリバイの機械仕掛けを目当てに開くと、事件の輪郭がなかなか定まらないことにもどかしさを覚えるかもしれません。ただ、輪郭が定まらないのは、この物語が「何が起きたか」より先に「誰が誰にとって何であるか」を問うからです。
638ページを支えているのは、事件の数ではなく、この問いの重さです。人と人の距離を測る推理を楽しめる読者には、重い手応えを残す一作になるはずです。
作品の背景
匠千暁シリーズは1995年の『解体諸因』に始まる連作で、『依存』はその第6作にあたります。2000年に幻冬舎から単行本が出ました。
2003年10月には幻冬舎文庫に入り、文庫で638ページです。
手に取るなら
現在は幻冬舎文庫で読め、電子書籍版もあります。匠千暁シリーズの第6作ですが、教授宅の一夜から始まる筋は本作単独でも追えます。
逆に、四人の通称や飲み会の空気を知ったうえで読むなら、1995年の『解体諸因』から順にたどるのが確実です。文庫の厚みは、そのまま腰を据える時間の目安になります。
新しい夫人が居間に現れる、その瞬間に立ち会うつもりでページを開いてみてください。
西澤保彦について
西澤保彦は1960年、高知県安芸市に生まれ、2025年に64歳で亡くなりました。アメリカのエカード大学で創作法を学び、帰国後は高知大学経済学部の教務助手や高校の講師を務めながら小説を書き続けます。
1990年には「聯殺」が第1回鮎川哲也賞の最終候補に残り、1995年に『解体諸因』で作家としてデビューしました。
同じ一日を繰り返す『七回死んだ男』や『人格転移の殺人』のように、SF的な設定を本格ミステリに持ち込み、その規則を示したうえで推理の土台に据える作風で知られます。〈匠千暁〉〈神麻嗣子〉〈腕貫探偵〉と複数のシリーズを並行して書き継ぎ、2023年には短編「異分子の彼女」で第76回日本推理作家協会賞の短編部門を受けました。
書誌情報
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