ミステリーとしての読みどころ
霧のたちこめるダートムアの荒野で、休暇中の警部が一人の赤毛の女性と出会う。ただそれだけの出会いが、やがて国境を越え、湖の光のなかで姿を変えつづける奇怪な連鎖へと膨らんでいきます。
イーデン・フィルポッツ『赤毛のレドメイン家』は、一つの事件が見るたびに違う貌を見せる、その眩暈のような感触で読者を捉える英国黄金期の古典です。
著者について
フィルポッツは1862年、インドに生まれました。英国本国で教育を受け、事務員などの職を経て文筆の道へ入った人です。
生涯にわたって推理小説だけでなく田園小説、戯曲、詩と、旺盛に筆を執りつづけた多作の作家でもありました。『闇からの声』『溺死人』といった作品を残し、1960年に世を去るまで筆をおくことがなかったといいます。
その厖大な仕事のなかでも本作の名を決定づけたのは、海を越えた日本での評価です。江戸川乱歩がこの一作を読んだ体験を「万華鏡」に譬えて絶賛し、自らが選ぶ探偵小説ベスト10の第1位に据えました。
アガサ・クリスティが愛読を公言したことでも知られ、1922年の刊行から一世紀を経てなお、英国本格の代表的長編として読み継がれています。
物語の入り口
物語はイングランド南西部、霧深いダートムアの荒野から幕を開けます。スコットランド・ヤードの敏腕警部マーク・ブレンドンは、束の間の休暇を釣りで過ごしていました。
渓流のほとりで彼が出会ったのが、赤毛の美しい女性ジェニー・ペンディーンです。その姿と印象に、ブレンドンは強く心を奪われます。
荒野の静けさのなかで芽生えた淡い感情が、この物語の静かな起点になります。
ところが、その数日後のことです。ジェニーの夫マイケルが、義叔父にあたるロバート・レドメインとの作業の最中に、忽然と姿を消してしまいます。
現場に残されていたのは、大量の血痕と、バイクにまたがって走り去る赤毛の男ロバートを見たという目撃だけ。肝心のマイケルの姿は、どこにもありません。
休暇で訪れたはずの警部は、こうして不可解な出来事の渦中へと引き入れられていきます。
やがて舞台は、陰鬱なデヴォンの荒野を離れ、陽光あふれるイタリア・コモ湖畔へと大きく移ります。事件の中心にいるのは、レドメイン家の三兄弟——ロバート、ベンディゴ、アルバート。
この一族をめぐって、奇怪な失踪と殺害が次々と連鎖していきます。荒野で始まった一つの謎は、ここで一族全体を呑み込む大きなうねりへと姿を変えていくのです。
北国の霧と南欧の光、荒々しい岩肌と穏やかな水面。舞台が転じるたびに、事件そのものの色合いまでもが塗り替えられていく。
読者はちょうど、万華鏡をひとつ回すたびに硝子の模様が組み変わっていくのを眺めるときのような、心地よく落ち着かない足場に立たされることになります。
読みどころ
本作の醍醐味は、事件が舞台とともに何度も貌を変えていく、その振れ幅の大きさにあります。 ダートムアの荒野が湛える陰翳と、コモ湖畔の南欧的な明るさ。
相反する二つの風景を往還しながら、物語の色調そのものが局面ごとに転調していきます。乱歩が「万華鏡」と呼んだのは、まさにこの「同じ像が、覗く角度を変えるたびに違う模様を結ぶ」感触だったのでしょう。
派手な仕掛けで一撃を食らわせるというより、静かに積み重なっていく出来事のひとつひとつが、物語の景色を少しずつ塗り替えていく。その穏やかな転調の妙こそが、本作の背骨と呼ぶべきものです。
古典らしい優雅な語り口に身を委ね、風景と局面の推移を丁寧に追うほど、最後に開ける眺めは鮮やかになります。公式の紹介文が「やがて驚愕の真相へ」と予告するその一点へ、物語は静かに収斂していきます。
シリーズものではなく、単独で読み切れる長編です。予備知識なしに手に取れるので、英国黄金期本格の懐を広げたい読者にも、フィルポッツという名前に初めて触れる読者にも向いています。
一方で、疾走するサスペンスや、切れ味鋭い展開の連打を求める向きには、じっくりと風景を描き込む古典の歩調はいくぶん悠長に映るかもしれません。事件そのものが劇的に走り出すまでには、荒野やコモ湖畔の情景をたっぷりと味わう時間が置かれているからです。
けれど、その落ち着いた語りに時間を預けられる読者にとっては、像がじわじわと変わっていく読書そのものが、何より大きな愉しみになるはずです。急がず頁をめくるほど、この物語は静かに応えてくれます。
手に取るなら
現在手に取るなら、創元推理文庫の新訳で読めます。一世紀前の英国で書かれた作品でありながら、単独で完結する間口の広さと、乱歩が第1位に推した確かな骨格を併せ持つ一冊です。
時代の隔たりを感じさせない読みやすさで、古い翻訳ミステリに身構えてしまう人にも入りやすいはずです。海外古典の一冊目としても、読み慣れた人が名作の原点に立ち返る一冊としても、安心して薦められます。
ダートムアからコモ湖畔へ——舞台とともに何度も貌を変えるこの奇怪な連鎖を、じっくりと味わってみてください。