なのに指紋は誰とも合わない。
九人と死で十人だ
潜水艦が潜む大西洋の輸送船上。誰とも一致しない指紋がH・M卿に挑む海の密室。
容疑者は限られている。船は大西洋のただ中にあり、誰ひとり外へは出られない。
それなのに、現場に残された血染めの指紋は、船の上にいる誰のものでもなかった——。『九人と死で十人だ』(1940年)は、〈不可能犯罪の巨匠〉と呼ばれたジョン・ディクスン・カーが、カーター・ディクスン名義で書き上げた海上の不可能犯罪ものです。
物語の入り口
第二次大戦初期。ニューヨークの埠頭に、エドワーディック号が碇泊しています。
行き先は英国の某港、積み荷は軍需品。船倉には大量の爆薬が収まり、その先には潜水艦の潜む大西洋が広がっています。
見つかれば、それきりの航海。危険きわまりないとは、まさにこの船のことです。
好きこのんで乗る者などいそうにない——それでも、この船には乗客が九人いました。
航海二日目の晩、事件が起こります。妖艶な美女が、船室で喉を掻き切られていた。
そして被害者の右肩には、血に染まった指紋がくっきりと残されていたのです。
これほど分かりやすい手がかりもそうはありません。しかも現場は海の上です。
誰も乗ってこられず、誰も降りられない。容疑者の名簿は、はじめから閉じられている。
閉ざされた船の上で、決定的な物証が出た——探偵小説としては、むしろ順調すぎるほどの滑り出しに見えます。あとは全員の指紋を採って照合すればいい。
そう考えるのが道理でしょう。
ところが、該当者なし。
船の上にいる人間をひとり残らず調べて、その指紋を残した手の持ち主だけが、どこにも見当たらないのです。頭を抱えたのは船長でした。
港はまだ遠く、警察の助けを仰ぐこともできない。船長は、たまたま乗り合わせていた陸軍省の大立者に事態収拾を依頼します。
その大立者こそ、豪快な名探偵として知られるヘンリ・メリヴェール卿でした。そこへ轟く一発の銃声、続いて大きな水音——。
読者が立たされるのは、この上なく居心地の悪い場所です。事件を起こした人物は、間違いなくこの船の上にいます。
それは動かしようがない。にもかかわらず、たったひとつの物証が、誰をも指さないのです。
逃げ場のない海の真ん中で、限られた顔ぶれと同じ空気を吸いながら、その宙ぶらりんな不可能を抱えたまま先へ進まされることになります。
読みどころ
読みどころは、閉じた場所と決定的な物証を突き合わせ、可能性そのものを消し去ってしまう謎の作り方にあります。 ふつう指紋は、容疑者を絞り込むための道具のはずです。
ところが本書では、その指紋が絞り込むどころか、限られた顔ぶれをまとめて消してしまう。確かめれば確かめるほど、事件は解けなくなっていく。
〈不可能犯罪の巨匠〉の異名が伊達でないことは、この最初の一手だけで十分に伝わってきます。
そしてこの謎は、海の上でなければ成り立ちません。密室の壁にあたるのは船体であり、その外に広がるのは冷たい大西洋です。
おまけに時代は戦時下、潜水艦に怯えながらの航海ですから、船を降りることも、助けを呼びに行くことも叶わない。謎解きの緊張と、航海そのものの緊張が、二重に読者を締め上げてきます。
ページを繰る手が止まらないとしたら、それはどちらのせいでもあります。
こんな人におすすめ
不可能状況の提示に痺れたい読者、名探偵が腰を上げる瞬間の高揚を味わいたい読者には、まっすぐ薦められる一冊です。一方で、1940年に書かれた作品ですから、語りの呼吸も人物の描き方も、当時の探偵小説の流儀そのもの。
現代の犯罪小説のような心理の掘り下げや社会的な奥行きを期待して開くと、少し肩透かしを感じるかもしれません。ここで差し出されるのは、起こりえない事態を精密に組み上げてみせる職人の仕事です。
それを味わうつもりで開くのが、いちばん幸せな読み方でしょう。
作品の背景
本書はヘンリ・メリヴェール卿シリーズの一作。英国版には『Murder in the Submarine Zone(潜水艦警戒水域の殺人)』という、身も蓋もないほど直截な原題が付けられました。
そう名づけたくなるのも道理で、この舞台立ては机上の思いつきではありません。作者自身が1939年に体験した大西洋渡航が、そのまま下敷きになっている。
海の匂いが本物なのは、そのためです。
手に取るなら
いま手に取るなら、創元推理文庫版(2016年)です。本書が初めて文庫に収められたのが、この一冊にあたります。
巻末には横井司による解説と、駒月雅子の「ここだけのあとがき」を収録。海上の不可能犯罪を堪能したあとは、同じヘンリ・メリヴェール卿ものの『黒死荘の殺人』『ユダの窓』へ、あるいはカー名義のフェル博士もの『帽子収集狂事件』『曲がった蝶番』へ。
道は、いくらでも続いています。
カーター・ディクスンについて
カーター・ディクスンは、ジョン・ディクスン・カー(1906〜1977)がもうひとつの筆名として使った名前です。カーはアメリカ・ペンシルヴェニア州の生まれで、1930年に予審判事アンリ・バンコランを探偵役とする『夜歩く』でデビューしました。
1930年代初めにイギリスへ渡り、英国を舞台に書き続けます。本名ではギデオン・フェル博士のシリーズや、シリーズ探偵を持たない『皇帝のかぎ煙草入れ』などを発表しました。
ディクスン名義の顔は、1934年の『黒死荘の殺人』で初登場したヘンリ・メリヴェール卿、通称H・M卿です。でっぷりとした体で怒鳴り散らしながら、密室や足跡のない殺人といった不可能犯罪を解いていきます。
『ユダの窓』はこの名義の代表作に数えられます。カーは1963年にアメリカ探偵作家クラブ(MWA)の巨匠賞を受け、「不可能犯罪の巨匠」の異名で呼ばれています。
書誌情報
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