ミステリーとしての読みどころ
ロンドン近郊の映画スタジオに、村育ちの新人作家がひとり降り立ちます。処女作がいきなり大当たりし、その勢いのまま脚本家として迎えられた——ここまでなら、幸運な作家の栄達物語です。
ところが撮影所で彼女を待っていたのは、硫酸と、銃弾と、予告状でした。『かくして殺人へ』(1940年)は、〈不可能犯罪の巨匠〉と呼ばれた作家が、怪奇の霧をあえて払い、撮影所の喧噪と軽妙なやり取りのただ中に殺意を置いてみせた一作です。
著者について
カーター・ディクスンという署名の下にいるのは、ジョン・ディクスン・カーその人です。アメリカ、ペンシルヴェニア州生まれ(1906-77)。
1930年、予審判事アンリ・バンコランを探偵役とした『夜歩く』でデビューし、以後は驚くべき速度で代表作を積み上げていきました。カー名義では、ギディオン・フェル博士シリーズの『帽子収集狂事件』『曲がった蝶番』、ノンシリーズの『皇帝のかぎ煙草入れ』。
カーター・ディクスン名義では、ヘンリ・メリヴェール卿シリーズの『黒死荘の殺人』『ユダの窓』。ふたつの名前を使い分けながらオールタイム・ベスト級の傑作を次々にものし、熱狂的な読者を獲得した作家です。
〈不可能犯罪の巨匠〉というその異名は、いまも動いていません。本書は1940年、カーター・ディクスン名義で発表されたヘンリ・メリヴェール卿の活躍譚。
創元推理文庫に収められたのは2019年のことです。
物語の入り口
物語は、モニカ・スタントンが生まれ育った村を出るところから動きだします。処女作がいきなり大当たりし、その映画化にあたって脚本家として招かれた彼女は、ロンドン近郊の映画スタジオへやってきました。
生まれ育った土地しか知らなかった娘が、いきなり映画づくりの現場へ放り込まれるのです。仕事場をあてがわれ、机に向かい、いざ脚本執筆に張り切るモニカ。
しかも組む相手は、探偵小説畑から来た脚本家カートライトです。畑違いのふたりが肩を並べて台本に取りかかるという、いかにも賑やかな滑り出しでした。
物語がこのまま業界喜劇へ流れていっても、それはそれで楽しく読めたことでしょう。
ところが、撮影所に入ってからというもの、モニカの身辺で剣呑なことが続きます。硫酸を浴びかけ、銃撃され、そのうえ予告状まで舞い込む。
一度きりなら不運や事故で片づけられたはずの出来事が、続けざまに彼女ひとりへ集まってくるのです。台本とカメラと撮影スケジュールが淡々と回りつづける職場の、そのすぐ隣で、あろうことか、来たばかりの新人作家の命が狙われている。
ここまでくれば、もう偶然では説明がつきません。いよいよ生命の危機、というところまで事態は進みます。
黙って見ていられなくなったのが、カートライトでした。義憤に駆られた彼は、手に入れた証拠をひっさげてヘンリ・メリヴェール卿に会い、犯人を摘発してくれと談判します。
素人が名探偵の前に証拠を突き出して詰め寄る——その勢いのよさが、この作品の温度をよく表しています。乗り出してくるのは、豪快な名探偵と、スコットランド・ヤードのマスターズ首席警部。
撮影所の外から来たふたりの目が、こうしてスタジオの内側へ向けられていきます。舞台となる英国は、灯火管制下。
日が落ちれば明かりを覆う国の、その一角に建つ撮影所が、この物語の器になっています。
読みどころ
読みどころは、怪奇の色を抑えたところに立ち上がる、この作家のもうひとつの顔です。 陰にこもった屋敷も、いわくありげな伝説も、ここでは前面に出てきません。
代わりに据えられているのは、映画撮影所という活気にみちた仕事場と、そこで飛び交う軽妙な会話です。この作家のシリーズのなかでも、はっきりと趣の異なる一冊と言っていいでしょう。
読者は、脚本家たちの機知に笑わされながら、同じページの上で「次にモニカへ何が飛んでくるのか」を警戒しつづけることになります。愉快さと不穏さが交互に押し寄せる、落ち着かない椅子。
この座り心地の悪さが、そのまま本書の持ち味です。
そして、なぜ彼女なのか。撮影所に来たばかりの新人作家が、これほど執拗に狙われる——その一点の異様さが、宙ぶらりんのまま物語を引っ張っていきます。
硫酸も、銃弾も、予告状も、ばらばらの脅威として彼女に降りかかってくる。事件の輪郭が定まらないまま緊張だけが高まっていく感触は、黄金期の探偵小説が得意とした「奇妙な事態そのものの魅力」の、まぎれもない一例です。
そこへ乗り込んでくる名探偵の頼もしさもまた、格別の味わいがあります。
古典の名探偵ものを、その時代の空気ごと味わいたい読者によく合う一冊です。舞台裏を覗くような撮影所小説としての面白さがあり、会話の応酬にユーモアがあり、そのうえで謎解きの興味が最後まで持続する。
ヘンリ・メリヴェール卿の物語をすでに追っている読者にとっては、この作家の別の音域を聴く機会にもなります。逆に、濃厚な怪奇と恐怖の色合いを期待して開くと、本書はずいぶん風通しがよく感じられるかもしれません。
ただ、その明るさは手加減ではなく、はっきりとした選択です。恐怖の照明を落とした場所で、探偵小説の骨格だけをきちんと立ててみせる——そういう作品を読みたい夜にこそ向いています。
手に取るなら
いま手に取るなら、創元推理文庫の白須清美訳(2019年)です。白須清美は英米文学翻訳家で、クェンティンの『迷走パズル』『俳優パズル』『人形パズル』『女郎蜘蛛』、バークリー『服用禁止』、イネス『霧と雪』などを手がけてきた訳者です。
原書は1940年の作品ですが、こうして新しい訳で読めるのはありがたいところ。巻末には霞流一による解説を収録しています。
ヘンリ・メリヴェール卿シリーズには『黒死荘の殺人』『ユダの窓』といった名高い作品があり、本書で豪快な名探偵の手つきに触れてから、そちらへ足を延ばすという読み方もできます。黄金期の薫りを、映画撮影所という少し変わった入り口から吸い込んでみたい方に、まずおすすめしたい一冊です。