ミステリーとしての読みどころ
逆説と諧謔をあやつり、人の腑に落ちない振る舞いを裏返してみせる——そんな小柄な司祭が、最後にもう一度だけ事件の前に立ちます。『ブラウン神父の醜聞』は、カトリックの司祭ブラウン神父が探偵役を務める連作短編集の第五作にして、シリーズの最終巻。
収められた全9編は、いずれもチェスタトン特有のユーモアと逆説にあふれ、円熟の筆が神父探偵ものの掉尾を飾ります。
著者について
作者のG・K・チェスタトンは、1874年に生まれたイギリスの作家・評論家です。逆説と諧謔の大家として知られ、その名を推理小説の歴史に刻んだのが、この目立たぬ司祭を主人公とする一連の短編でした。
コナン・ドイルの作品と並んで後世の書き手たちに計り知れない影響を与えたと評され、長編『木曜の男』にみなぎる独特の幻想性によって、今なお熱狂的な読者を惹きつけてやみません。
神父探偵ものは『童心』に始まり、本書で五冊目を数えます。原書が世に出たのは1935年。
その翌1936年に、チェスタトンは世を去りました。つまりこの一冊は、逆説の名手がたどり着いた最晩年の到達点であり、はからずも神父探偵ものの幕引きとなった作品でもあります。
長い年月をかけて磨かれてきた語り口が、ここでひとつの完成形を見せている、と言い換えてもよいでしょう。
本書に収められているのは、表題作「ブラウン神父の醜聞」から幕を開ける全9編です。「手早いやつ」「古書の呪い」「緑の人」「《ブルー》氏の追跡」「共産主義者の犯罪」「ピンの意味」「とけない問題」「村の吸血鬼」。
手がかりになるのはこのタイトルの並びだけですが、それを眺めるだけでも、ずいぶん幅のある謎が一冊のなかに待ち構えているのが伝わってきます。全編が傑作にして必読とまで讃えられる、贅沢な顔ぶれ。
ひと口に謎解きといっても、その色合いは一編ごとに異なります。彩りの異なるその一つひとつを、ひとりの司祭が同じ静かなまなざしで受け止めていきます。
たとえば「古書の呪い」。その古書を開いた者は跡形もなく消えてしまう——そう伝えられるとおりの奇怪な事件が起きる、という発端から物語は動き出します。
ページを繰った人間が忽然と姿を消すなど、まるで怪談の入り口のよう。理屈の通らない不吉な謎が、のっけから読者を身構えさせます。
怪談じみた言い伝えと現実に起きた出来事とが地続きになった、そのひやりとする出だしだけで、ページを繰る手はもう止まらなくなります。
あるいは「《ブルー》氏の追跡」。閉ざされた現場で起きた奇妙な殺人の謎が、このうえなく鮮やかに解かれる一編として名高い作品です。
逃げ場のない状況にぽつんと据えられた不可解な死——その情景を前にすると、事件はほどけそうもない結び目に見えてきます。そんな謎の数々に、小柄で目立たぬこの神父が同じ静かなまなざしで向き合っていく。
9編それぞれに趣向は異なりますが、一冊を貫くのは、ものごとを見慣れない角度から眺め直すチェスタトン一流の逆説の手つきです。奇妙な入り口でいったん立ち止まらされたうえで、読者は神父の導きに身を委ねることになります。
読みどころ
読みどころは、逆説の名手が最後にたどり着いた、円熟の語り口そのものにあります。 一編ごとに趣向を変えながらも、どの謎も、着地してみればふしぎと腑に落ちる。
ものの見方を一度ひっくり返してみせるチェスタトンの手つきは、このシリーズ最終巻でいよいよ滑らかで、力みがありません。短編ならではの切れ味と、長い年月をかけて練り上げられた語りの余裕とが、同じ一冊のなかで両立しています。
晩年の作とはいえ、そこにあるのは枯れた寂しさではなく、むしろ最後まで衰えを見せなかった機知の冴えです。
もうひとつ、これがシリーズ最後の一冊だということも、読み手にとっては見逃せない事実です。神父探偵ものは『童心』から始まる長い道のりを歩んできました。
その到達点を、一編ずつ気軽に味わえる短編集として手に取れる。初めてこの司祭に出会う読者にも、扉はちゃんと開かれています。
名探偵に導かれて謎がすっとほどけていく、古典的な短編推理を好む読者には、まっすぐ薦められる一冊です。一話ごとに趣向が変わる呼吸を心地よく感じられるなら、なおのこと。
逆に、ひとつの長い物語にじっくり腰を据えて浸りたい読者には、短編集という形そのものが少し物足りなく映るかもしれません。血の匂いや張りつめた緊迫感で引っ張るタイプの謎解きを求めると、逆説と諧謔で軽やかにひねってみせるこの読み味は、方向がやや異なります。
とはいえ、その飄々とした知的な味わいこそが、この作家の身上です。
手に取るなら
いま手に取るなら、創元推理文庫版(中村保男訳)が確かです。巻末には若島正氏による解説を収録。
〈ブラウン神父〉シリーズの掉尾を飾る一冊であり、逆説の名手が円熟の境地で紡いだ最後の連作を、じっくり味わえます。シリーズの入り口である『童心』からたどるのも一興ですが、本書だけを独立した短編集として開いても、その面白さはいささかも損なわれません。