ミステリーとしての読みどころ
穏やかな昼下がりの談話が、ある一言でふいに止まります。温厚で小柄な紳士が、筋のとおった話の途中に、まるで意味の通らない突飛な文句をぽつりと差し挟むのです。
『ポンド氏の逆説』は、その一見ばかげた言葉がなぜ真実たりうるのかを解きほぐしていくうちに、伏せられていた事件の姿がゆっくりと立ち上がってくる——そんな趣向で編まれた連作短編集です。
著者について
作者はG・K・チェスタトン。1874年に生まれ、1936年に世を去った、逆説と諧謔の大家です。
名探偵といえば真っ先に名の挙がる「ブラウン神父」の生みの親であり、その短編推理は、コナン・ドイルの作品と並んで後世の書き手たちに計り知れない影響を与えました。長編『木曜の男』に漂う独特の幻想性によって、いまなお熱狂的な読者を惹きつけてやまない存在でもあります。
本書は、そのチェスタトンが晩年に手がけた、ブラウン神父を離れた連作です。原書の刊行は1936年、ちょうど彼が世を去った年にあたります。
逆説というチェスタトン一流の武器が、ここではもっとも純度の高いかたちで謎解きへ注ぎ込まれている。名高い神父ものの陰に隠れがちですが、著者の持ち味だけを蒸留したような一冊です。
主役のポンド氏は、温厚で小柄な紳士。穏やかな官吏で、声を荒らげることも、人を驚かせようと身構えることもありません。
ところが会話がなめらかに流れているそのさなか、彼はふと、前後の脈絡から浮き上がる奇妙な一言を漏らします。たとえば、こんな具合に。
「兵士たちが命令に忠実だったゆえに、元帥のもくろみは失敗した」。あるいは、「2人の男はあまりにも完全な意見の一致に達したため、片方がもう片方を殺害した」。
どちらも、言葉の上では筋が通りません。忠実であれば命令は果たされるはずですし、心から意見の一致した相手を手にかける理由などないように思えます。
読者はまず、この宙ぶらりんな矛盾を手渡されたまま置き去りにされる。そこが本書の妙味です。
多くのミステリが、事件が起きてその謎を解くという順序で進むのに対して、本書はその道筋を裏返しています。まず逆説がぽつりと置かれ、その言葉がどうして真実たりうるのかをたどるうちに、背後に伏せられていた事件の輪郭が少しずつ現れてくる。
結論から出発して原因へさかのぼるような、逆立ちした語り口です。ポンド氏は逆説の法則そのものにさえ逆説的に挑みかかりながら、最後には論理的かつ意外な真相へと話を着地させます。
収められているのは八つの物語です。「黙示録の三人の騎者」「ガヘガン大尉の罪」「博士の意見が一致する時」「ポンドのパンタルーン」「名前を出せぬ男」「恋人たちの指輪」「恐ろしき色男」「高すぎる話」。
いずれの入り口にも、ポンド氏の投げかけるひとつの矛盾が待ち構えています。聞いた瞬間には受け入れがたく、それでいて解きほぐされたあとには妙に腑に落ちる。
その落差を八度くり返し味わえる作りです。
読みどころ
本書の醍醐味は、意味の通らないはずの一文が、読み終えるころには一分の隙もない理屈へと組み変わっている、その手際にあります。 逆説は奇をてらうための飾りではありません。
ばかげて響いた言葉の裏に、実はきちんとした論理が畳み込まれていた——その畳まれ方がほどけていく瞬間こそ、チェスタトンがもっとも得意とした芸当です。謎を解いてみせるより先に結論めいた一句を掲げてしまうこの運びは、探偵小説の定石をあえて裏返した趣向で、読み手の予想をひとひねりしたところから物語が動きだします。
短い枚数のなかで驚きと納得が同時に訪れる密度は、長編ではなかなか出せないものでしょう。
連作短編という形も、この趣向によく馴染んでいます。一編ごとに逆説がひとつ提示され、ひとつ解かれる。
腰を据えて長い物語につきあう時間がなくても、ひと駅ぶんの読書で「矛盾から真実へ」の一往復をきちんと味わえます。神父ものの名声に隠れて手に取る機会を逃しやすい本ですが、チェスタトンの逆説そのものを楽しみたいのなら、むしろこちらが近道かもしれません。
論理の遊戯としての謎解きを好み、伏線が鮮やかに回収される瞬間に快感を覚える読者には、まっすぐ薦められます。会話の妙や、言葉のねじれを効かせた語り口を楽しめる人ならなおのこと。
一方で、血のかよった人物描写や、じっくり感情移入できる長い物語を求めて開くと、この機知に振り切った軽やかさは少し物足りなく映るかもしれません。逆説の切れ味そのものを面白がれるかどうかが、本書との相性を分ける一点です。
手に取るなら
手に取るなら、南條竹則の新訳による創元推理文庫版です(2017年刊)。チェスタトンの訳業を数多く手がけてきた訳者だけに、逆説のねじれた味わいを歯切れのよい日本語へ移しています。
巻末には西崎憲による解説を収録。晩年のチェスタトンが、名探偵ものの王道からわずかに外れた場所で見せた機知の冴えを、いまいちばん確かなかたちで味わえる一冊です。