ミステリーとしての読みどころ
砂浜に横たわる、一つの刺殺体。まわりに残されているのは、被害者自身の足跡と、砂に打ち上げられた海星ばかり。
凶器も、逃げた者の痕跡もありません。こんな謎を前にして、しゃがみ込んで足跡を測るのではなく、ふと空を仰ぐような探偵がいたら、どうでしょう。
詩人にして画家のガブリエル・ゲイルは、世界をさかしまに覗くことで真実を見出す、風変わりな名探偵です。理屈を一つずつ詰めるのではなく、詩人の眼が一足飛びに核心を射抜いてしまう——そんな一風変わった謎解きの連作短編集が、本書『詩人と狂人たち』です。
著者について
作者はG・K・チェスタトン。名探偵といえば、多くの読者がまず思い浮かべるのは、あの小柄な聖職者〈ブラウン神父〉かもしれません。
逆説と諧謔の大家として知られたこの作家は、コナン・ドイルと並んで後世の書き手たちに計り知れない影響を与えました。1874年に生まれ、1936年に世を去るまで、作家として、評論家として旺盛に筆を執りつづけた人です。
その一方で、長編『木曜の男』に色濃くにじむような、独特の幻想性もまた彼の身上でした。
本書は、その幻想の血脈を引く一冊です。ブラウン神父ものとは別の探偵を主役に据えた、非ブラウン神父の連作短編集。
原書が世に出たのは1929年のことでした。論理を丹念に積み上げて解いてみせるブラウン神父ものに親しんだ読者ほど、同じ作者が聖職者ならぬ詩人に託したこの謎解きの手ざわりに、軽い驚きをおぼえるかもしれません。
理性の光よりも、夢の手ざわりに近いところで、事件は組み立てられていきます。
主人公のガブリエル・ゲイルは、詩人であり、画家でもあります。常識や理性の外側、狂気と正気のあわいから世界を眺めるこの男は、周囲で起きる不可解な出来事に、まっとうな推理とはおよそ違う角度から切り込んでいく。
手がかりを一つずつ拾って積み上げるのではなく、世界をさかしまに——上下を引っくり返すように覗くことで、誰も気づかなかった真実の像を結ばせる。正気の人間には見えないものが、狂気の淵に半分足を浸した詩人にだけ見えてしまう。
それが、ゲイルの「逆説の探偵術」です。
その術が試される謎は、どれも忘れがたい発端を持っています。たとえば、先ほどの浜辺の刺殺体。
被害者の足跡と海星のほかには、砂に何ひとつ残されていないという不可解さ。あるいは、不吉な象徴をあちこちに配した家の晩餐に、なぜか十三人目の客として招かれてしまった詩人の一夜。
さらには、「奇蹟を起こす」と言い置いて、巨大な塔から忽然と姿を消してしまった男。どれも、絵画の一場面のように鮮烈な光景です。
いずれの入り口も、どこか寓話めいた手ざわりと、背筋を撫でる不吉さとを同時にたたえています。読者はこの奇怪な情景の前に立たされ、ゲイルという奇人のかたわらで、常識では測りきれない出来事を見上げることになります。
そして、その一つひとつに、詩人の眼だけがとらえる答えが用意されている。収められた短編は、全部で八つ。
「風変わりな二人組」に始まり、「黄色い鳥」「鱶の影」「ガブリエル・ゲイルの犯罪」「石の指」「孔雀の家」「紫の宝石」、そして「冒険の病院」と続いていきます。
読みどころ
本書の妙は、論理ではなく詩の眼で真相にたどり着く、その逆転にあります。 手がかりを論理で積み上げて解くブラウン神父ものとは対照的に、ゲイルの物語では、詩人の直観がまっすぐ核心を射抜きます。
理性が取り逃がすものを、狂気すれすれの感受性が掬い上げる——そんな逆説こそ、逆説と機知の作家チェスタトンの真骨頂でしょう。
だからこの連作は、謎解きであると同時に、濃密な幻想小説でもあります。事件の輪郭はくっきりと立ちながら、その背後には、夢とも寓話ともつかない気配がたゆたっている。
理知的なパズルのつもりで読み始めた人が、いつのまにか幻想の霧に酔わされている——そんな読み心地の一冊です。逆説と機知でならした作家が、その持ち味をもっとも自由に遊ばせた場所、と言ってもいいかもしれません。
すべての手がかりが盤面に並び、証拠だけが犯人を指し示す、そういう純度の高い論理パズルだけを求める読者には、この幻想の霧は少しまどろっこしく映るかもしれません。けれど、謎解きの骨格を保ちながら、詩や寓意の香りを漂わせるミステリを好む読者には、これ以上ない一冊です。
奇想と美しさが同居する短編を、腰を据えて一編ずつ味わいたい夜に、そっと似合う本と言えます。
手に取るなら
いま手に取るなら、創元推理文庫に収められた南條竹則の新訳(2017年)です。訳者はチェスタトン作品を数多く手がけてきた書き手で、逆説の利いた原文の呼吸を、端正な日本語へ移し替えています。
巻末には鳥飼否宇による解説も添えられ、この一風変わった連作をどう味わえばよいのか、よき導きになってくれます。ブラウン神父の名にはなじみがあっても、この詩人探偵にはまだ出会っていない——そんな読者にこそ、まず開いてほしい幻想ミステリの佳品です。