幼い日の恐怖だけを残して。
最後の記憶
失われていく母の記憶に、ただひとつ残った恐怖。その正体を息子がたどる長編。
脳の病を患い、ほとんどすべての記憶を失いつつある母。彼女に残されたのは、幼い頃に経験したという、すさまじい恐怖の記憶だけでした。
死に瀕した彼女を今なお苦しめる、「最後の記憶」の正体とは何か。『最後の記憶』は、その問いを駆動力にして進む、綾辻行人の長編です。
館を舞台にした連作が続いていた時期に、その系列とはまったく別の場所から書かれた単独作で、恐怖小説の手ざわりと謎解きの構えを、同じ器に注いでいます。派手な事件が連続する作品ではありません。
手がかりを丹念に拾いながら進む、腰を落ち着けて読むための一冊です。
物語の入り口
母の名は、千鶴。脳の病を患い、ほとんどすべての記憶を失いつつあります。
昨日のことも、家族のことも、自分がどんな人生を送ってきたのかも、少しずつ手から零れ落ちていく。そんな彼女の心に、最後まで残っているものがひとつだけありました。
幼い頃に経験したという、すさまじい恐怖の記憶です。
すべてを忘れていく人が、たったひとつ、恐怖だけを忘れられない。死に瀕した彼女を、その記憶は今なお苦しめています。
あれは何だったのか。母は何を見たのか。
死に瀕した母のなかに残ったこの問いが、物語を動かす最初の力になります。
その記憶の源をたどろうとするのが、息子の波多野森吾です。母の口から零れる断片を手がかりに、幼い日の母に何があったのかを探っていく。
ただし、相手は記憶を失いつつある人です。訊けば答えが返ってくるわけではない。
今日聞き出せたことが、明日には母のなかから消えているかもしれない。記憶を失いつつある人から記憶を聞き出す、という設定の困難さが、この調査の最初から横たわっています。
読者は、森吾と並んで、母のそばに座ることになります。目の前にいる人は、少しずつ遠くなっていく。
それでも、恐怖だけは彼女のなかに残り続けている。その恐怖の正体を知ることが、母のためになるのか、それとも。
問いの重さを抱えたまま、息子は過去へ向かって歩き出します。派手な事件が連続する物語ではありません。
断片を拾い、確かめ、また拾う。その丹念な歩みそのものが、この長編の時間です。
読みどころ
記憶を失いつつある母の心に、恐怖だけが消えずに残っている。この一点の痛ましさが、最後の頁まで読み手を離しません。
忘れることは、ふつうなら救いでもあります。ところが千鶴は、救いになるはずのものを失いながら、苦しみだけを手放せない。
その残酷さが、物語の底にずっと沈んでいます。恐怖小説の手ざわりと謎解きの構えが同じ器に注がれているのは、この設定そのものが恐怖であり、同時に謎でもあるからです。
もうひとつは、母と息子という関係の置き方です。事件を追う探偵ではなく、母の苦しみを取り除きたい息子が、記憶の源をたどる。
調査の動機が、謎解きの興味だけではないところに、この長編の温度があります。腰を落ち着けて読む時間があるときに、ゆっくりと進んでください。
急いで読む本ではありません。母の言葉を待つ息子と同じ速さで、読者もこの物語を歩くことになります。
こんな人におすすめ
心理サスペンスの静かな緊張を好む読者、記憶や家族といった主題に惹かれる読者に向いています。館ものの綾辻行人しか知らない人には、この作家の別の顔を知る機会になります。
逆に、事件が次々と起こる展開の速さを求める気分のときには、本作の丹念な歩みはもどかしく感じられるかもしれません。腰を落ち着けて、じっくり読む時間がある週末に。
読み終えたあと、しばらく静かにしていたくなる本です。
作品の背景
単行本は2002年8月、角川書店から刊行されました。2006年1月にカドカワ・エンタテインメント版、2007年6月に角川文庫版が出ています。
館シリーズの第7作『暗黒館の殺人』が2004年に出ていますから、本作はその直前に置かれた、シリーズ外の一冊ということになります。
綾辻行人は館を舞台にした謎解きを書き継ぐ一方で、恐怖を主眼に据えた作品にも繰り返し取り組んできました。本作は、その二つの顔が、記憶を失いつつある母をめぐるひとつの物語のなかで重なった作品です。
手に取るなら
現行版は角川文庫で、巻末の解説は千野帽子です。電子書籍でも読めます。
シリーズには属さない単独の長編ですから、綾辻行人の他の作品を読んでいなくても問題ありません。512ページという分量ですが、手がかりを拾いながら進む読み方に合わせて、ゆっくりページをめくってください。
すべてを忘れていく人が、最後まで忘れられなかったもの。その正体を、息子とともに確かめに行く一冊です。
静かな夜に、ゆっくりと。
綾辻行人について
綾辻行人は1960年、京都市の生まれです。京都大学教育学部に進んで京大推理小説研究会に所属し、のちに妻となる小野不由美と同期でした。
研究会には我孫子武丸や法月綸太郎も在籍しています。大学院在学中の1987年に『十角館の殺人』でデビューし、この一作がのちに「新本格」と呼ばれる流れの起点になりました。
1992年には『時計館の殺人』で第45回日本推理作家協会賞(長編部門)を、のちには第22回日本ミステリー文学大賞を受けています。
奇妙な館を舞台にした館シリーズを書き継ぐ一方で、囁きシリーズや『殺人鬼』、『Another』、『深泥丘奇談』の連作など、恐怖と怪奇を主眼に据えた作品にも長く取り組んできました。漫画家の楳図かずおを「わが心の師」と公言しており、謎解きの骨組みを組み上げる仕事と、怖さを描く仕事を並行して続けてきた作家です。
書誌情報
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