もうひとつの京都がある。
深泥丘奇談
地図がわずかにずれた京都で、ミステリ作家の日常に怪異が入りこむ連作集。
ミステリ作家の「私」が住んでいるのは、“もうひとつの京都”です。現実の京都によく似ていながら、座標がわずかにずれている街。
その街の裏側に、得体の知れないものたちが隠れている。古い病室の壁、長く続く雨の日、送り火の夜。
『深泥丘奇談』は、そうした場面から怪異が日常に入りこみ、見慣れた景色が別のものに変わっていく連作短編集です。館を舞台にした謎解きを長く書いてきた綾辻行人が、自分の生まれ育った街を素材に書き継いできた、もう一方の顔がまとまって読める一冊。
事件が起きて探偵が現れて説明がつく、という運びとは、成り立ちがはっきり違います。
物語の入り口
語り手は、ミステリ作家の「私」。住んでいるのは京都ですが、読者の知っている京都とは、少しだけ違います。
“もうひとつの京都”です。地名も風景も見覚えがあるのに、地図の座標がわずかにずれている。
そのずれは、最初はほとんど気づかない程度のものです。
ところが、その街の裏側には、人の目に触れないものが隠れています。入り口となる場面は三つ。
古い病室の壁に。長びく雨の日に。
送り火の夜に。どれも、京都で暮らしていれば誰でも出会う、ごくふつうの時間と場所です。
そこに、怪異が忍び込んでくる。しかもその怪異は、怖いだけではありません。
見慣れた風景を一変させながら、読む側まで惹きつけてしまう怪異なのです。
連作短編集ですから、一話は短く、話と話のあいだには余白があります。「私」は日々を暮らし、ときどき、日常の裏側に足を踏み外す。
その繰り返しのなかで、見慣れた風景が、少しずつ、しかし確実に一変していきます。事件が起きて、探偵が現れて、最後に説明がつく。
そういう謎解き小説の運びは、ここにはありません。伏線が回収される快感を期待して開くと、肩透かしを食うかもしれない。
その代わりに、別の種類の手応えがあります。
読者は、「私」と並んで、この少しずれた京都を歩くことになります。病室の壁を眺め、雨の日を過ごし、送り火の夜に出かける。
何かがおかしい、と気づく瞬間が、一話ごとに用意されています。怪談としても、幻想小説としても読める。
細切れの時間でも、一話ずつ読み進められます。
読みどころ
見慣れた風景が、少しずつ侵蝕されていく。そのじれったいほどの遅さに、この連作の怖さと魅力が宿っています。
怪異は、いきなり襲ってきません。病室の壁、雨の日、送り火の夜。
日常のなかに、ほんの少しの違和感として忍び込み、気づけば風景を一変させている。綾辻行人は、その手つきを一話ずつ、丁寧に繰り返します。
館シリーズの派手な建築とは正反対の、静かな筆致です。声を荒らげない語りだからこそ、違和感は静かに、しかし確実に読者のなかへ入ってきます。
もうひとつは、京都という街の使い方です。作者自身が生まれ育った街を、“もうひとつの京都”として少しだけずらす。
見覚えのある風景だからこそ、そのずれが効く。京都に土地勘のある人なら、なおさら落ち着かない気持ちになるはずです。
そして、三冊で閉じる連作の第一集として、この街の入口に立つ一冊でもあります。
こんな人におすすめ
怪奇や幻想の気配を好む読者、京都という街に惹かれる読者に向いています。館ものの綾辻行人しか知らない人には、この作家のもう一方の顔を知る入り口になります。
一話ごとに区切りがあるので、少し間を置いてから次の話へ進むと、話と話のあいだの余白がそのまま、ずれた街で過ごす時間の長さのように感じられてきます。逆に、謎解きの快感や伏線の回収を第一に求める人には、本作の余白は物足りなく感じられるかもしれません。
それは欠点ではなく、この連作の成り立ちです。
作品の背景
綾辻行人が、自分の生まれ育った街を素材にして、怪談専門誌『幽』を主な発表の場に書き継いだのが、この連作です。謎解きの建築家という顔の裏に、怪異を静かに描く語り手の顔がある。
その裏の顔を三冊にわたって見せていく連作の、最初の一集がここにあります。
単行本は2008年2月、メディアファクトリーの幽BOOKSから。2011年12月にMF文庫ダ・ヴィンチ、2014年6月に角川文庫と版を移し、現行版は角川文庫で320ページ。
電子書籍でも読めます。続篇に『深泥丘奇談・続』『深泥丘奇談・続々』があり、三冊で連作が閉じる構成です。
三冊とも角川文庫で揃います。
手に取るなら
現行版は角川文庫。三冊で閉じる連作の第一集ですから、ここから順に読むのが自然です。
館シリーズの知識はまったく不要で、むしろ館シリーズの印象を一度脇に置いて開いてください。“もうひとつの京都”の入口は、この一冊にあります。
病室の壁、雨の日、送り火の夜。その三つの場面を皮切りに、見慣れた風景が一話ごとに姿を変えていきます。
綾辻行人について
綾辻行人は1960年、京都市の生まれです。京都大学教育学部に進んで京大推理小説研究会に所属し、のちに妻となる小野不由美と同期でした。
研究会には我孫子武丸や法月綸太郎も在籍しています。大学院在学中の1987年に『十角館の殺人』でデビューし、この一作がのちに「新本格」と呼ばれる流れの起点になりました。
1992年には『時計館の殺人』で第45回日本推理作家協会賞(長編部門)を、のちには第22回日本ミステリー文学大賞を受けています。
奇妙な館を舞台にした館シリーズを書き継ぐ一方で、囁きシリーズや『殺人鬼』、『Another』、『深泥丘奇談』の連作など、恐怖と怪奇を主眼に据えた作品にも長く取り組んできました。漫画家の楳図かずおを「わが心の師」と公言しており、謎解きの骨組みを組み上げる仕事と、怖さを描く仕事を並行して続けてきた作家です。
書誌情報
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