医師はそう決意した。
殺意
平凡な田舎医師の内面から犯罪を描く、犯罪小説史の里程標
殺人を企てる男の側から、その計画のすべてを見せてしまう。犯人が誰かを問うのではなく、彼が何を考え、どう動くのかを最初から読者に明かしていく——本作『殺意』は、そうした倒叙推理小説の形式を、犯罪小説の歴史に刻みつけた一冊です。
舞台となるのは英国の片田舎。そこで開業する平凡な医師の内面へ、物語は静かに分け入っていきます。
物語の入り口
物語の中心にいるのは、英国の片田舎で診療所を営むビクリー博士。世間から見れば、穏やかで実直な田舎医師にすぎません。
けれど、その家庭は外から見えるほど平穏ではありませんでした。妻ジュリアは高圧的で支配的な女性であり、二人のあいだに愛情はとうに枯れています。
愛のない結婚生活のなかで、博士の内側には、静かに、しかし確かに、ある決意が育っていく。妻を殺そう——そう思い定めた彼は、露見の隙のない「完璧な殺人」を、緻密に組み立てはじめます。
ここからの筆致がじつに巧みです。ふつうのミステリなら最後まで伏せておくはずの犯意も計画も、本作は冒頭から読者の前に広げてみせる。
にもかかわらず、いえ、だからこそ、ページを繰る手が止まらなくなります。読者は、いわば博士の肩越しに、彼が計画の細部を一つひとつ詰めていく様子をつぶさに見守ることになる。
冷静に段取りを整えていく思考の流れと、その裏でひたひたと満ちていく暗い決意。その二つが同じ人物のなかに同居しているさまを、間近から眺めさせられるのです。
読者が立たされるその位置は、どこか落ち着きません。うまく運んでほしいのか、しくじってほしいのか——自分でもわからないまま、博士の内面に付き合わされていくことになります。
やがて物語は、犯行過程の克明な描写から、捜査の担い手との神経戦へ、そして息詰まる法廷の攻防へと進んでいきます。各段階で何が起こり、どちらへ転ぶのか。
それは実際に読んで確かめていただくほかありませんが、平凡な男の内面から出発した物語が、どこまで張りつめた緊張へと登りつめていくのか——その道のりそのものが、本作いちばんの読みどころです。
読みどころ
本作の新しさは、謎の答えではなく、人の心を推理の対象に据えた点にあります。 誰が犯人かはわかっている。
トリックの正体を当てる遊びでもない。それでもこれほどのスリルが生まれるのは、読者の関心が「犯人はどんな人間で、その企ては人の心にどんな影を落とすのか」へと移されているからです。
上品な共同体の表面の下でうごめく緊張を、著者は黒い諧謔とともにすくい取り、殺人者の心理を正面から描き切ってみせました。犯罪小説に新生面を拓いた歴史的名作と評されるのは、この一点ゆえです。
なお本作は、クロフツ『クロイドン発12時30分』、リチャード・ハル『伯母殺人事件』と並んで、倒叙推理小説の三大名作に数えられています。倒叙という形式の面白さを知るうえで、まず手に取るべき一冊と言っていいでしょう。
犯人当ての意外性を第一に求める読者には、そういう楽しみ方の作品ではない、と先に伝えておくのが親切かもしれません。本作が差し出すのは、犯人と犯意を早々に知らされたうえで、なお目を離せなくさせる別種のサスペンスです。
人間の心理を腰を据えて追う語り口に身を委ねられる読者、そして「上手に隠された謎」よりも「隠さずに突きつけられる緊張」に惹かれる読者にこそ、深く刺さるはずです。上品な皮肉と冷ややかな観察眼を味わえるなら、九十年余りの時を経てなお古びない読書になります。
作品の背景
本格黄金期の書き手アントニイ・バークリーがフランシス・アイルズと名義を替え、パズルの妙とは別の方向へ舵を切って、犯人の心理そのものを主役に据えたとき、生まれたのがこの『殺意』でした。実在の事件に着想を得たとも伝えられる本作は、1931年の発表以来、犯罪小説に新しい地平を開いた古典として読み継がれています。
手に取るなら
現在は東京創元社の創元推理文庫で読むことができます。1931年に世へ出て以来、時代を超えて版を重ねてきた古典であり、倒叙推理という一大潮流の源流に触れられる作品です。
バークリー名義の本格作品を先に読んでいる方なら、同じ作家が別の名義でここまで異なる地平を切り開いたことに驚くはず。まだの方も、まずこの一冊から入って、そのまま『毒入りチョコレート事件』へと足を延ばしてみる——そんな読み方も似合う、犯罪小説史の里程標です。
フランシス・アイルズについて
フランシス・アイルズは、イギリスの作家アントニイ・バークリー(1893年生まれ、1971年没)が用いた筆名のひとつです。バークリーはハートフォードシャーの医師の家に生まれ、オックスフォード大学を出て第一次世界大戦に従軍したのち、雑誌『パンチ』などにユーモア小説を寄稿していました。
1925年に『レイトン・コートの謎』で探偵小説に進出し、ロジャー・シェリンガムものや『毒入りチョコレート事件』で知られ、ディテクション・クラブの創設にも加わっています。
アイルズ名義では、1931年の『殺意』、1932年の『レディに捧げる殺人物語』、1939年の『被告の女性に関しては』を発表しました。『レディに捧げる殺人物語』はヒッチコック監督の映画『断崖』の原作です。
1939年以降は小説をほとんど書かず、アイルズ名義で新聞の書評を長く担当しました。
書誌情報
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