街の噂をなぞっていた。
将棋殺人事件
地震のあとに現れた屍体が街の噂をなぞる、天才少年・牧場智久の第二の事件。
駿河湾沖を震源とする大きな地震が、各地を揺さぶります。被害が広がっていくさなか、土砂崩れの中からふたつの屍体が見つかる——。
竹本健治『将棋殺人事件』は、災害の混乱と死の発見が重なり合う、その騒然とした地点から動き出す推理小説です。屍体の見つかり方は、東京の盛り場でささやかれていたある噂に、奇妙なほど似ていました。
少年探偵・牧場智久にとって、これが二度目の事件になります。
物語の入り口
始まりは、大地の揺れです。駿河湾沖を震源とする大規模な地震が発生し、被害は各地に及びます。
その混乱のさなか、土砂崩れの中からふたつの屍体が発見されました。災害の報せと死の発見が、同じ場面に重なって届く。
誰のせいでもない天災の傷跡から、誰かの意思を感じさせる死が顔を出すのです。
ここで、もう一本の線が引かれます。六本木界隈には、奇怪な噂が蔓延していました。
「恐怖の問題」と呼ばれる噂です。土砂の中から現れたふたつの屍体の状況は、その噂をなぞったかのようでした。
海の底から来た揺れと、盛り場で人の口から口へ渡っていく出どころの知れない話。まるで縁のなさそうな二つの出来事が、屍体の発見を境に、一本の線で結ばれて見えてきます。
この符合に興味を覚えたのが、牧場智久です。少年は、噂の原型と発生源を調べ始めます。
屍体そのものより先に、誰が最初に言い出したのか、元はどんな形をしていたのかという、噂の来歴のほうへ目を向ける。事件の追い方として一風変わった道筋で、この少年の関心がどこに向くのかが、動き出しの一歩からよく表れています。
形のない噂を相手に、少年の手探りが始まります。
駿河湾沖の揺れと、六本木の噂。地図の上では遠く離れたこの二点を、少年は噂の来歴という細い筋でつなごうとします。
読者は、少年と同じ位置に立たされ、手がかりのない街で噂の糸をたぐる作業に付き合うことになります。
読みどころ
本作の醍醐味は、天災と盛り場の噂が一つの事件に重なることで立ちこめる、その霧の濃さにあります。
霧が濃くなる理由は、組み立てそのものにあります。天災という大きな出来事と、盛り場の噂という小さく曖昧な出来事。
規模も質もまるで違う二つを、物語は同じ盤の上に並べてみせます。しかも少年が追いかけるのは、指紋や足跡のような形あるものではなく、人の口を渡り歩くうちに輪郭のぼやけていく話です。
読み進めるあいだ、霧の中で目を凝らしながら歩くような感覚がつきまといます。どちらの線をたどればいいのか、手探りのまま先へ進む時間が、この作品の読み心地の中心にあります。
もうひとつは、題名に掲げられた将棋の扱いです。作中には詰将棋が置かれ、その作成を若島正が担っています。
盤と駒の問題そのものとしても一局に向き合えるのは、この題材を選んだ推理小説ならではの贅沢でしょう。将棋を指す人なら、手を止めて盤面を考える時間そのものが楽しみになるはずです。
指さない人にとっても、物語のなかに作家とは別の作り手による一局が埋め込まれているという趣向は、ちょっとした驚きになるでしょう。
こんな人におすすめ
都市の噂や、出どころの知れない話の不気味さに惹かれる人に、最初に薦めたい作品です。見通しのきかない展開に振り回されること自体を楽しめる人、詰将棋を一局の問題として味わいたい将棋好きにも向きます。
一方で、手がかりを一つずつ積み上げていく一直線の捜査を好む人には、途中の見通しの悪さがもどかしく映るかもしれません。大きな地震という背景に、重さを感じる人もいるでしょう。
作品の背景
『将棋殺人事件』は1981年2月、CBSソニー出版から刊行されました。前年の『囲碁殺人事件』に続く二作目で、同じ年の8月に出る『トランプ殺人事件』をもって〈ゲーム三部作〉は閉じます。
この三部作は、竹本健治が26、27歳の頃の、ごく初期の仕事にあたります。囲碁の次に選ばれた盤上の遊戯が将棋でした。
現行の創元推理文庫版では、巻末の解説と作中の詰将棋の作成を、どちらも若島正が手がけています。小説の中に置かれた一局の問題まで、作家とは別の作り手に託すという念の入れようです。
手に取るなら
現在入手しやすいのは、2004年5月刊の創元推理文庫版(286ページ)です。若島正の解説と詰将棋はこの版で読めます。
1994年2月には角川文庫にも入り、2017年3月の講談社文庫版には書き下ろし短編「オセロ殺人事件」が併録されました。刊行順に『囲碁殺人事件』から読めば、牧場智久との出会いから順を追えます。
地震のあとに残された噂の糸を、少年と並んでたぐっていく——霧の濃い道行きを味わうための一作です。
竹本健治について
竹本健治は1954年、兵庫県相生市に生まれました。東洋大学文学部哲学科に在籍していた1977年、『虚無への供物』の中井英夫の推薦を受けて、探偵小説専門誌『幻影城』で長編『匣の中の失楽』の連載を始め、世に出ます。
新人がいきなり長編を連載するという異例のデビューで、メタミステリの書き手として注目を集めました。
『幻影城』の廃刊後は、天才少年囲碁棋士・牧場智久が登場する〈ゲーム三部作〉を発表し、一時はSFにも活動の場を移します。1991年には作者自身や実在の作家たちを作中に登場させる『ウロボロスの偽書』を刊行しました。
2016年の『涙香迷宮』は「このミステリーがすごい!」2017年版国内編で1位となり、翌年には第17回本格ミステリ大賞を受けています。大学で囲碁研究会に入り、アマチュアの全国大会にも出場した打ち手で、盤上の遊戯はしばしば作品の題材になっています。
書誌情報
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