「本物」がもう一人現れた。
曲がった蝶番
本物はどちらか――入れ替わりの謎に端を発する、フェル博士もの屈指の人気作。
本物のこの家の当主は自分のほうだ――そう言い張る男が、ある日ファーンリー家に現れます。すでに爵位を継ぎ、当主の座に収まっている人物がいるにもかかわらず、です。
ならば、二人のうちどちらが本物のジョン・ファーンリーなのか。証拠はどちらに味方するのか。
『曲がった蝶番』は、この人物の真贋という一点から静かに立ち上がっていく、ギディオン・フェル博士ものの一編です。
物語の入り口
舞台はイングランド南東部、ケント州の旧家ファーンリー家。当主はジョン・ファーンリー卿。
一年前、二十五年ぶりにアメリカから帰国し、爵位と地所を継いだばかりの人物です。跡目はこれで定まったかに見えた矢先、その相続に真っ向から異を唱える男が現れます。
パトリック・ゴアと名乗るその男いわく、いまの当主は偽者、自分こそが正当な相続人――。継いだばかりの爵位も地所も、根こそぎ揺らぎかねない申し立てです。
男の主張が正しければ、この一年の相続はまるごと覆り、旧家の主が入れ替わってしまう。よりどころとして彼が持ち出すのは、二十五年前のタイタニック号――あの沈没の夜です。
渡米の途上、船上の大混乱に乗じて二人は入れ替わった、というのが言い分でした。あの夜のただならぬ混乱のなかでなら、二人の身元がひそかにすり替わることもありえたのではないか。
にわかには信じがたい話ですが、かといって頭ごなしに退けることもできません。こうして、どちらが本物かを見きわめる調査が、両者の弁護士立会いのもとで進められることになります。
そこへ招かれたのが、ギディオン・フェル博士。いまの当主か、それとも名乗り出た男か。
持ち込まれる証拠を一つずつ検め、二人のどちらが二十五年前のジョン・ファーンリーその人なのかを見定めていく――それがフェル博士に託された役目です。
二人の言い分は真っ向からぶつかり、証拠がひとつ明らかになるたびに、天秤はどちらかへ傾いていきます。読者は、当主と挑戦者のあいだで小刻みに揺れるその天秤を、固唾を呑んで見守る位置に立たされます。
どちらの言い分にも一理あるように思え、心はなかなか一方に定まらない。真偽がいままさに確定しようとする、その張りつめた空気のなかで――。
そして、決定的な証拠によっていよいよ事が決しようとした、まさにその矢先。調査の夜に、不可解極まりない事件が起こります。
読みどころ
この作品の面白さは、「どちらが本物か」という真贋の問いそのものが、そのまま物語を前へ押し出す力になっているところにあります。 入れ替わりという趣向には、じつは実在の下敷きがあります。
十九世紀の英国を長く騒がせた相続争い、ティチボーン事件。世間の耳目を集めたこの係争を土台に据えることで、「本物であるとは、何をもって証されるのか」という問いに、絵空事ではない手ざわりが宿りました。
もうひとつの読みどころは、その謎を名探偵に委ねてしまえる安心感です。差し出される手がかりの一つひとつをフェル博士が拾い上げ、筋を通していく。
読み手はその推理の運びに身をゆだね、真贋の判定へと一緒に連れていってもらえばいい。古典本格ならではの醍醐味を、正面から味わえる一作です。
こんな人におすすめ
二人の当主候補のうち、どちらが本物か。その一点に心を掴まれる読者には、まっすぐ薦められます。
名探偵が手がかりを束ね、混沌にすっと筋を通していく。そうした王道の謎解きを求める夜にこそ似合う一冊です。
逆に、めまぐるしい展開や現代的な語り口を求めて開くと、黄金期らしい端正な運びは少し悠長に映るかもしれません。ただ、腰を据えて謎と向き合うその時間こそ、こうした古典ならではの贅沢。
急がず、一枚ずつ手がかりのカードがめくられていく感触を、じっくり楽しみたい一冊です。
作品の背景
本書はフェル博士もので、1938年の発表です。海外の本格ファンによる人気投票でもたびたび上位に名の挙がる、シリーズ屈指の人気作として読み継がれてきました。
手に取るなら
いま手に取るなら、創元推理文庫の新訳版です。訳者は、カー『帽子収集狂事件』やタートン『イヴリン嬢は七回殺される』などを手がけてきた英米文学翻訳家の三角和代。
同じ訳者による『帽子収集狂事件』とあわせて読めば、フェル博士ものを読み継ぐ愉しみも広がります。巻末には福井健太による解説を収録。
フェル博士に初めて出会う一冊としても、ここから入って過不足はありません。〈不可能犯罪の巨匠〉と呼ばれた作家が、人物の真贋という一風変わった入り口から組み上げた一編を、いまいちばん読みやすいかたちで味わえます。
ジョン・ディクスン・カーについて
ジョン・ディクスン・カーは1906年にアメリカのペンシルヴェニア州で生まれ、1977年に亡くなりました。1930年、パリの予審判事アンリ・バンコランが登場する『夜歩く』でデビューし、1932年に英国人女性と結婚して渡英してからは、英国を主な舞台に書き継いでいきます。
ギデオン・フェル博士のシリーズと、カーター・ディクスン名義で書いたヘンリ・メリヴェール卿のシリーズという二つの柱を並行させ、『帽子収集狂事件』『ユダの窓』、シリーズの外に置いた『皇帝のかぎ煙草入れ』などを残しました。
密室をはじめ、起こりえないはずの状況を組み立てては解いてみせる作風から〈不可能犯罪の巨匠〉と呼ばれ、怪奇な雰囲気づくりにも長けた書き手です。1950年に伝記『コナン・ドイル』でアメリカ探偵作家クラブの特別賞を受け、1963年には同クラブの巨匠賞(グランド・マスター)を贈られています。
書誌情報
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