ミステリーとしての読みどころ
ロンドンの広告代理店に、妙な新人がやってきます。名前はデス・ブリードン。
前任のコピーライターが社内の螺旋階段から落ちて死んだ、その後任として雇われた男です。ところがこの新人、コピーの腕を振るう傍らで、亡くなった前任者の死の周辺をやたらと嗅ぎ回りはじめる――『殺人は広告する』は、ミステリの女王セイヤーズが、自分のよく知る職場をまるごと舞台に据えた潜入長編です。
著者について
作者のドロシー・L・セイヤーズは1893年、オックスフォードに生まれました。オックスフォード大学を卒業したのち、広告代理店でコピーライターとして働きながら小説を書き、1923年、貴族探偵ピーター・ウィムジィ卿もの第一長編『誰の死体?』でデビュー。
そのモダンなセンスで黄金時代を代表する作家となり、『ナイン・テイラーズ』『五匹の赤い鰊』『学寮祭の夜』といった作品群を残しました。クリスティと並んで「ミステリの女王」と称される存在です。
本作はそのウィムジィ卿シリーズの中期、版元の数え方で第8長編にあたります。刊行は1933年。
シリーズの中でも、舞台設定の妙でひときわ記憶に残る一冊として読み継がれてきました。というのも、ここでセイヤーズが選んだ舞台は、彼女自身が九年近くも身を置いた場所――広告業界そのものだからです。
1922年から大手広告代理店ベンソン社でコピーライターを務めた経験が、本作の隅々にまで生きています。
物語の中心にあるのは、ロンドンの広告代理店ピム社(Pym's Publicity)です。広告主が訪れる火曜のオフィスは、朝から賑わしい。
とりわけ厄介なのが金曜掲載の定期広告で、これには文案部の面々もそろって音をあげる。そんな締切に追われるコピーライターたちの職場に、ある火曜、妙な新人が入社してきます。
デス・ブリードンと名乗るその男は、亡くなった前任者ヴィクター・ディーンの後任として雇われたコピーライターでした。
ディーンは、社内の鉄製螺旋階段から転落して命を落としています。けれども新入りのブリードンは、コピーの仕事をこなす一方で、この前任者の死の周辺をしきりに穿鑿しはじめます。
当然、社内は少しずつざわつきはじめる。人の出入り、噂話、机の上で交わされる冗談――ありふれたオフィスの日常のあちこちに、ブリードンは引っかかりを見つけていくのです。
この新人の正体が、ほかならぬピーター・ウィムジィ卿であることを、読者は早くから知らされています。貴族が平の会社員になりすまし、コーヒー片手に軽口を飛ばす同僚たちに混じって働く。
その二重生活のおかしみと、じわじわ滲む不穏さが交互に訪れる呼吸が、本作の独特の手触りを作っています。読者は、ブリードンの隣の席に着いた同僚のような近さで、この賑やかなオフィスの空気を吸いながら、彼が何を掘り当てていくのかを見守ることになります。
公式の惹句を借りれば、社内をかき回すこの新人の物語は、やがて「真相に至るや見事な探偵小説に変貌する」。そう予告される作りです。
読みどころ
本作の一番の贅沢は、広告業界という職場そのものを、内側から知る人間の手つきで描き切っているところにあります。 社内のヒエラルキー、コピー会議の空気、コーヒーを片手に飛び交う冗談、納期に追われる現場のざわめき。
そのどれもが、外から取材しただけでは出せない密度で書き込まれています。セイヤーズにとって広告代理店は想像上の舞台ではなく、九年間ほんとうに働いた場所でした。
ミステリでありながら一級の「お仕事小説」として読める――それが本作の長く愛されてきた理由のひとつでしょう。
もうひとつ、1930年代英国という時代の影も濃く落ちています。急成長する消費文化と広告産業、その華やかさの裏で進む都市の暗部。
当時のロンドンに広がっていた退廃的な空気が、事件の輪郭にじんわりと滲み出してくる。謎解きの枠を、社会風俗の観察がぐるりと取り囲んでいるのです。
構図そのものはシンプルな潜入捜査でありながら、読み終えたあとに残るものが厚いのは、この時代の手触りゆえでもあります。
本作で読ませるのは、奇抜な仕掛けの意外性よりも、舞台と人物の厚み、そして潜入という状況そのもののスリルです。派手なからくりの連続を求めて開くと、少し肩透かしに感じる場面もあるかもしれません。
けれど、英国の階級社会や当時の空気ごとミステリを味わいたい読者、活気ある職場小説として楽しみたい読者には、これ以上なく誂え向きの一冊。貴族が場違いなオフィスで奮闘するユーモアに気楽に笑いたい、というだけの動機で手に取っても、きっと満たされるはずです。
手に取るなら
邦訳は浅羽莢子訳、創元推理文庫で読めます。浅羽は東京大学文学部卒の英米文学翻訳家で、キャロル『死者の書』やピーク『ゴーメンガースト』など、幻想味の強い作品の名訳でも知られる人です。
ウィムジィ卿シリーズを順に追う楽しみもありますが、本作は潜入捜査という分かりやすい枠組みゆえ、ここから足を踏み入れても十分に楽しめます。広告というフィールドに惹かれる方に、まず手に取ってほしい潜入長編です。