満潮が現場ごとさらう。
死体をどうぞ
ハリエットが海辺で死体を発見。再登場作にして二人が組むシリーズ第7作。
波打ち際に聳える岩の上に、喉を掻き切られた男の死体がひとつ。それを見つけたのは、休暇でイングランドの海辺を歩いていた一人の探偵作家でした。
『死体をどうぞ』(1932年)は、この鮮烈な発見を起点に、黄金期英国を代表する名探偵と、彼と対等に渡り合う女性作家とが、肩を並べて怪事件に挑んでいく一編です。
物語の入り口
物語は、ハリエット・ヴェインの徒歩旅行から静かに幕を開けます。仕事を離れ、イングランド南西部の海岸をひとり気ままに歩いていた彼女は、人けのない浜辺で足を止める。
波打ち際に聳える岩の上に、横たわる人影を見つけたのです。近づいてみれば、それは喉を掻き切られた若い男の死体でした。
かたわらには剃刀が落ちている。そして、見渡すかぎり、砂の上には一筋の足跡しか印されていません。
潮騒のほかに物音ひとつしない浜辺で、彼女は思いがけず怪事件の入り口に立たされます。
第一発見者となったハリエットは、当然ながら混乱と不安のただ中に投げ込まれます。ところが、彼女が助けを呼ぼうと動いているあいだに、事態はいっそう厄介になっていく。
満ちてくる潮に乗って、当の死体が海へと運び去られてしまうのです。事件の中心にあるはずの死体そのものが失われ、あとに残されたのは、わずかな手がかりと、彼女自身の証言だけ。
やがて報せを聞きつけた貴族探偵ピーター・ウィムジイ卿が、捜査に乗り出します。数々の難事件を鮮やかに解いてきた名探偵をもってしても、この一件は容易に底が見えません。
手がかりはたしかに存在するのに、それらがなかなかひとつの像を結ばない。そのもどかしさのなかで、ハリエットとウィムジイ卿は、しだいに本格的な協力関係を築いていきます。
読者は、二人が言葉を交わす傍らに腰を下ろすようにして、断片的な事実がどのように組み上がっていくのかを、彼らとほとんど同じ歩幅で見守っていくことになります。
読みどころ
この作品の醍醐味は、緻密に組まれた謎解きの構成と、二人の探偵が繰り広げる会話劇とが、分かちがたく結びついているところにあります。 版元は本作を、探偵小説としての構成においてシリーズ一、二を争う雄編と評しています。
手がかりは物語の随所に配され、読者もまた登場人物と同じ材料を手にしながら考えを進めることができる。名探偵の推理にただ身を委ねるのではなく、その傍らで一緒に頭を悩ませる——そんな愉しみが、この一冊にはたっぷりと用意されています。
くわえて本作は、遊戯精神においても卓越した輝きを誇る大作として知られています。難事件と向き合う二人のやり取りには、捜査の記録という枠を超えた軽妙さと知的な火花があり、それが物語全体に独特の華やぎを添えている。
探偵と助手という一方的な図式にとどまらず、互いの見立てを率直にぶつけ合える対等な二人だからこそ、そのやり取りは終始いきいきとした張りを保っています。事件そのものの重さと、二人が織りなす会話の弾みとが同居しているところに、セイヤーズならではの読み味があります。
こんな人におすすめ
名探偵の推理を軸にした本格的な謎解きを、腰を据えてじっくり味わいたい読者に、まっすぐ薦められる一冊です。事件を追う二人の掛け合いそのものを楽しめる人であれば、相性はなおよいはず。
反対に、息もつかせぬ展開の速さや、短時間で読み切れる手軽さを求める向きには、丁寧に手がかりを積み上げていく語り口が、いくぶんゆったりと感じられるかもしれません。とはいえ、その落ち着いた歩みこそ、黄金期の探偵小説を読む愉しみそのものでもあります。
作品の背景
本作『死体をどうぞ』は、ピーター・ウィムジイ卿もののシリーズ第7作にあたります。見逃せないのは、探偵役の相棒とも言うべき人物、推理小説家ハリエット・ヴェインがここで二度目の登場を果たすこと。
手に取るなら
いま手に取るなら、創元推理文庫版が定番です。訳は浅羽莢子。
東京大学文学部を卒業した英米文学の翻訳家で、キャロル『死者の書』やピーク『ゴーメンガースト』など、幻想味の濃い作品を数多く手がけたことでも知られます。ミステリの女王が、名探偵とその相棒との関係を大きく前へ進めた節目の作であり、黄金期英国ミステリの豊かさに触れるうえでも、確かな読み応えを約束してくれる一冊です。
ドロシー・L・セイヤーズについて
ドロシー・L・セイヤーズは1893年、オックスフォードの生まれです。オックスフォード大学サマーヴィル・カレッジで中世フランス語を学び、1915年の最終試験で最優等の成績を収めました。
1922年から当時英国最大の広告代理店でコピーライターとして働き、そのかたわら書いた『誰の死体?』で1923年にデビューします。この作品で登場したのが、貴族探偵ピーター・ウィムジイ卿です。
ピーター卿の物語は、『毒を食らわば』で探偵小説作家ハリエット・ヴェインを迎え、『学寮祭の夜』『大忙しの蜜月旅行』へと続いていきます。謎解きに人物や土地の描写を厚く重ねた作風で、クリスティと並ぶ英国黄金期の代表的な作家に数えられ、1930年にはディテクション・クラブの創設にも加わりました。
後年は宗教劇やダンテ『神曲』の英訳に力を注ぎ、1957年に世を去っています。
書誌情報
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