ミステリーとしての読みどころ
学期の終わりが近づく英国の学校で、祝いの空気に包まれてもよいはずの数日間に、盗難、失踪、そして射殺事件が休む間もなく襲いかかります。『愛は血を流して横たわる』は、その不穏な渦のただ中へ名探偵フェン教授が引き込まれていく、黄金期英国の探偵小説です。
原書の刊行は1948年。日本では2010年に創元推理文庫で読めるようになりました。
学校という、日常のなかでもとりわけ秩序だった小さな世界が、内側からざわつきはじめる感触。まずはそこに惹きつけられます。
著者について
著者のエドマンド・クリスピンは、J・D・カーに私淑してミステリの筆を執るようになったと伝えられる才人です。カーの名を思えば不可能状況の張りつめた謎解きが連想されますが、クリスピンの持ち味はそれだけではありません。
随所に笑いを織り込む軽妙な作風で知られ、事件の緊張と人を食ったユーモアが同じ紙面に同居しているのが、この作家の書くものの手ざわりです。本作の主役を務めるのは、名探偵ジャーヴァス・フェン教授。
クリスピンが幾度も筆にとった、このシリーズの探偵役です。血なまぐさい題名と、どこか飄々とした探偵の取り合わせ。
その落差そのものが、読む前からこの一編の色合いを予感させます。
舞台となるのは、終業式を間近に控えたカスタヴェンフォード校です。式典を目前にした校舎は、本来なら一年の締めくくりに向けて浮き立っているはずの場所でしょう。
ところが、そこで頭を抱えているのが校長のスタンフォードです。まず、化学実験室から盗難が起こる。
続いて、終業式で上演される演劇に出るはずだった女子生徒が姿を消してしまう。そして事態は、教師二人が射殺されるという最悪のかたちにまで転げ落ちていきます。
授業と行事のリズムで動いていたはずの学校が、数日のうちに事件の連続する現場へと変わってしまう。その転落の速さが、読み手をたじろがせます。
困り果てた校長が助けを求めた相手が、たまたま来賓としてこの学校を訪れていたフェン教授でした。招かれた客が、いつのまにか殺人事件の渦中に立たされている——その巻き込まれ方からして、いかにもこの作家らしい呼吸です。
フェンは犯行現場へ足を運び、鋭い推理を披露してみせます。名探偵の頭脳がようやく舞台に上がった、と読者が息をつくのも束の間、翌日には村はずれの田舎家で、さらなる殺人が起こってしまうのです。
学校の内と外で、事件は次々と姿を変えて続いていきます。読者は、フェン教授のかたわらで一つひとつの出来事を突きつけられ、次に何が起こるのか見当のつかないまま、この落ち着かない数日間を歩かされることになります。
読みどころ
読みどころは、事件が積み重なっていく緊張と、それをからかうようなユーモアが、最後まで手を取り合って進んでいくところです。 立て続けに人が倒れ、学校という閉じた世界がきしんでいくのに、語り口はどこか軽やか。
この均衡が崩れないまま一気に読ませてしまうのが、クリスピンという書き手の芸当です。黄金期の探偵小説というと、端正で明るい謎解きの印象で語られがちですが、その枠のなかにも、これほど飄々とした声で事件を語る作家がいたのだと知る愉しみがあります。
緊張と笑いのどちらか一方に振り切るのではなく、両方を平然と抱え込んでみせるところに、この作家ならではの度胸があります。
もうひとつの読みどころは、舞台が学校であること自体の面白さでしょう。授業の時間割、行事の準備、生徒と教師の顔ぶれ——きっちりと秩序だった小世界だからこそ、そこに事件が持ち込まれたときの乱れ方が際立ちます。
誰もが顔見知りで、日課が分刻みで決まっている場所。その整然とした背景の上に不穏な出来事が置かれると、ひとつずつの綻びが妙に生々しく浮かび上がってくるのです。
校舎の内側で始まった騒動が、やがて村はずれの田舎家にまで及んでいく広がりも、この舞台立てならではの読み味を生んでいます。フェン教授とともに、その落ち着かない土地を歩いてまわる時間そのものが、本作の醍醐味だと言えます。
名探偵の推理を正面から味わいたい読者、そして重苦しくなりすぎない語り口で謎解きに浸りたい読者には、気持ちよく差し出せる一冊です。逆に、じっとりと沈み込むような陰鬱さや、社会の暗部をえぐる重量感を求めて開くと、この軽やかさは肩透かしに映るかもしれません。
ただ、その飄々とした声こそがこの作品の身上であり、続発する事件の物騒さと軽妙な語りの落差を楽しめる人にとっては、これ以上ないくつろぎの読書になるはずです。
手に取るなら
手に取るなら、創元推理文庫の一冊です。巻末には滝口達也による訳者あとがきと、宮脇孝雄による解説が添えられており、黄金期英国ミステリの香りを味わう案内役になってくれます。
フェン教授を主役とするシリーズのなかでも、学校という舞台の面白さと、事件の連鎖する組み立てが際立つ一編。黄金期の薫りをまとった探偵小説を探している夜に、静かに書棚から差し出したくなる作品です。