ミステリーとしての読みどころ
灯りのひとつも点いていない家が、新婚の二人を迎えます。買い取ったばかりの農家にたどり着いてみれば、待っているはずの前の所有者の姿がどこにもない。
1937年に発表された『大忙しの蜜月旅行』(原題 Busman's Honeymoon)は、貴族探偵ピーター・ウィムジイ卿を主人公とするシリーズの最後の長編にして、その幕引きの舞台を蜜月旅行の道中に据えた一作です。祝いの気分と不吉な静けさが、同じ屋根の下で隣り合う。
そういう物語が始まります。
著者について
ドロシー・L・セイヤーズは1893年、オックスフォードに生まれました。オックスフォード大学を卒業したのち、広告代理店でコピーライターの仕事をしながら小説を書き、1923年、デビュー作『誰の死体?』を発表します。
この第一長編で世に送り出されたのが、ほかならぬピーター・ウィムジイ卿でした。言葉で人を動かす商売を本業としていた作家だけあって、その文章にはモダンなセンスが行き渡っており、セイヤーズは紛れもなく黄金時代を代表する書き手として遇されてきました。
『ナイン・テイラーズ』を含む味わい豊かな作品群は、今なお後進に多大な影響を与えつづけています。ミステリの女王としてクリスティと並び称される——その評価も、こうした積み重ねの上に立つものです。
ほかに『五匹の赤い鰊』『学寮祭の夜』といった代表作を残し、1957年に世を去りました。
本書は、そのウィムジイ卿ものの掉尾を飾る長編です。デビュー作から数えて十四年。
作家が一人の探偵と付き合いつづけた歳月の、いちばん最後の一冊がこれにあたります。
とうとう結婚へと至ったピーター・ウィムジイ卿と、探偵小説作家のハリエット。長く待たれた結婚がついに成り、二人は従僕のバンターを連れて蜜月旅行へと出発します。
行き先は〈トールボーイズ〉という農家。買い取ったばかりの、これから自分たちのものになる家です。
買い取ったばかりの農家を新婚の滞在先に選ぶあたりに、この二人の趣味と、これから始まる暮らしの手触りが早くも滲みます。従僕を一人伴っての三人旅というのも、貴族探偵の蜜月らしい体裁でしょう。
ところが、到着した家は真っ暗でした。前の所有者が待っているはずなのに、応じる者がいない。
誰もいない。買ったばかりの家で迎える最初の夜が、祝祭の続きから、少しずつ違う色に染まっていきます。
訝りながらも、三人はそのまま滞在を始めます。ここで引き返さない選択が、そのあとに起きることを決めてしまうわけですが、その時点では誰にも分かりません。
そして、地下室で死体が発見されます。
蜜月の家が、そのまま事件現場に変わる。読者は、新居の荷ほどきと死体をめぐる調べごとが同じ床の上で進行していく奇妙な場所に立たされることになります。
新婚の二人にとって、この家はこれから暮らす場所であり、同時に調べ上げなければならない場所でもある。祝われるべき時間と、押しつけがましく割り込んできた死とが、切り離せないまま並走していく。
この配置そのものが、本書の落ち着かない魅力の源です。
読みどころ
読みどころは、シリーズの締めくくりという位置に、謎解きの興味がぴたりと重ねられているところです。 名探偵の物語が最終盤で私生活の側へ踏み込むとき、しばしば謎解きは添え物に退きがちですが、本書はそうなりません。
探偵と探偵小説作家が同じ屋根の下に居合わせる布陣のもと、暗い家と地下室の発見という古典的な素材が、正面から扱われていきます。黄金期の英国ミステリが得意としてきた、閉じた土地と限られた顔ぶれのなかで疑いが動いていく感触も健在です。
もうひとつ、本書には後日譚の短編が併録されています。長編を読み終えたあとに、その先のひとときへ橋を渡してくれる収録で、シリーズを追ってきた読者にとってはこの一冊の価値をさらに厚くする要素になっています。
黄金期の探偵小説を、風俗と会話と人物ごと味わいたい読者には、まず気持ちよく届く一冊です。名探偵ものとしての骨格を保ちながら、そこに暮らしの手ざわりが入り込んでくる読み心地は、この作家ならではのもの。
一方で、事件だけを最短距離で追いたい向きには、序盤の家をめぐるやりとりや二人の会話の分量がゆっくりに感じられるかもしれません。その滞りこそが本書の狙いどころでもあるので、腰を据えて付き合える時間に開くのが得策です。
シリーズ最終長編という性格上、ウィムジイ卿という探偵にある程度なじんでいるほど、味わいは濃くなります。
手に取るなら
現在手に取るなら、東京創元社の創元推理文庫版(猪俣美江子訳・2020年)です。訳者の猪俣美江子は慶應義塾大学文学部卒の英米文学翻訳家で、ウォルシュ『ウィンダム図書館の奇妙な事件』、アリンガム《キャンピオン氏の事件簿》、ピーターズ『雪と毒杯』、ブランド『薔薇の輪』など、英国ミステリの訳書を数多く手がけてきた人です。
巻末には三橋暁氏による解説を収録。シリーズ最後の名作長編が文庫で読める形になったこと自体、黄金期英国ミステリの棚にとって小さくない出来事でした。
ウィムジイ卿の物語をどこかで途中まで追ってきた方にも、これから遡ろうという方にも、確かな終着点として薦められる一冊です。