全員に分刻みのアリバイ。
木製の王子
比叡山麓に隠棲する一族の殺人。容疑者全員の分単位のアリバイという壁に挑む論理の長編。
雪が、屋敷への道を塞いでいます。比叡山の麓、人里を離れて隠棲する白樫家。
その夜、一族の若嫁・晃佳が殺されます。犯人は生首をピアノの上に飾り、一族の証である指環を持ち去っていた——麻耶雄嵩『木製の王子』は、この光景から幕を開けます。
そして容疑者の全員に、分単位の緻密なアリバイがある。2000年に講談社ノベルスから出た長編で、「本格ミステリ・ベスト10」2001年版の国内4位に選ばれました。
物語の入り口
白樫家は、比叡山の麓に隠棲する一族です。芸術家・白樫宗尚が建てた屋敷に暮らし、外の世界とは距離を置いている。
隠棲という言葉どおり、白樫家の人々は世間の目の届かない場所で、自分たちだけの暮らしを営んできました。そこへ雪が降り、道が塞がれた夜に、事件は起こります。
被害者は一族の若嫁・晃佳。犯人は生首をピアノの上に飾り、一族の証である指環を持ち去っていました。
遺体の見せ方は、それだけで一つの声明のようです。誰に向けた、何のための飾りなのか。
しかも持ち去られた指環には、もう一つの手がかりが絡んでいます。京都の出版社に勤める如月烏有の同僚、安城則定が、同じデザインの指輪を所持していたのです。
屋敷の外にいるはずの人間が、なぜ一族の証と同じものを持っているのか。この問いが、閉ざされた屋敷の外にも物語の糸を伸ばしています。
雪に閉ざされた家と、京都の街の出版社。二つの場所が一本の指輪でつながり、事件は屋敷の中だけの出来事ではなくなります。
そして、アリバイです。容疑者に挙がる全員に、分単位の緻密なアリバイがある。
誰がいつどこにいたかが、ほとんど隙間なく埋まっている。全員にアリバイがあると言われれば、どこかに嘘があるという意味ですが、その嘘がどこにあるかは、時間表を自分で並べ直さなければ見えてきません。
読者は、この時刻表を前にした如月烏有と同じ手詰まりを共有することになります。読み始める前に知っておいてよいのは、生首とピアノ、指環と時刻表、そして雪の夜。
この四つに尽きます。
読みどころ
読みどころは、分単位のアリバイという壁を、腰を据えて押し続ける読書にあります。 全員に裏づけがあるという状況は、裏を返せば、読み手が時刻と場所を自分で並べ直さないと足場ができないということです。
誰がいつどこにいたのか。付箋やメモを片手に整理しながら読むくらいがちょうどよい、手間のかかる物語です。
派手な仕掛けで一気に驚かせる書き方ではなく、細かな時刻の食い違いを積み上げていくやり方なので、途中を飛ばすと足元が抜けます。頁を戻って時刻を確かめ直す、その往復そのものが、この長編の読書のかたちになるはずです。
アリバイ崩しという型を、この作家は正面から、しかも分単位の精度で引き受けています。
もうひとつは、屋敷と一族の気味の悪さです。芸術家が建てた奇妙な家、外へ通じない雪の夜、世間から身を引いて暮らす一族の血縁。
合理的な推理の土台になるはずの設定が、同時に生理的な不穏さを放ち続けます。ピアノの上の生首という光景も、その空気の一部です。
血なまぐさい描写が苦手な方は、その場面があることだけは承知しておくとよいでしょう。怪奇の意匠と厳密な論理が同じ画面に同居していることは、デビュー作から続くこの作家の持ち味でもあります。
時刻表を読み解く手間を省いて雰囲気だけを楽しもうとすると、中盤の密度に息切れするかもしれません。ただ、時刻表の数字を一つずつ照らし合わせるその密度が、そのまま謎解きの歯ごたえになっています。
作品の背景
『木製の王子』の刊行は2000年8月、講談社ノベルスからでした。352ページの新書判で、麻耶雄嵩のデビューの9年後にあたります。
「本格ミステリ・ベスト10」2001年版で国内4位。
手に取るなら
現在手に取るなら、2026年2月刊の講談社文庫新装版です。496ページで、電子版も同日から配信されています。
木更津悠也の系列に属する一冊ですが、白樫家の事件はこの巻の中で完結しており、順番を気にせずここから読んでも困りません。ノベルス版は四半世紀前の刊行なので、古書で探すより新装版のほうが手間がかからないでしょう。
時刻を測り、可能性をひとつずつつぶしていく——そういう読み方をしたい夜に、メモ用紙を一枚添えて、雪の屋敷の扉を開けてみてください。
麻耶雄嵩について
麻耶雄嵩は1969年、三重県上野市(現在の伊賀市)の生まれです。京都大学工学部に学び、在学中は京大推理小説研究会に所属しました。
1991年、綾辻行人・法月綸太郎・島田荘司の推薦を受けて『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』でデビューしています。
以後、メルカトル鮎、京都の名探偵木更津悠也、推理を使用人に任せる貴族探偵と、癖の強いシリーズ探偵を並行して書き継ぎ、名探偵という存在そのものを問い直す本格を発表してきました。2011年に『隻眼の少女』で第64回日本推理作家協会賞と第11回本格ミステリ大賞を受け、2015年には『さよなら神様』で2度目の本格ミステリ大賞を受けています。
『貴族探偵』は2017年にテレビドラマにもなりました。
書誌情報
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