歌人は何を求めたのか。
戻り川心中
花を題に冠した5篇。表題作が第34回日本推理作家協会賞短編部門を受けた本格短編集。
二度の心中未遂。そのたびに相手の女だけが死に、男は生き残りました。
男はその情死行を歌に遺し、やがて自ら命を絶ちます。大正の歌壇で時代の先頭に立っていた歌人、苑田岳葉です。
連城三紀彦『戻り川心中』の表題作は、この歌人の生涯をめぐる一篇です。1980年に単行本として刊行され、翌1981年、表題作が第34回日本推理作家協会賞短編部門を受賞しました。
藤、桔梗、桐、白蓮、そして戻り川。花の名を題に冠した5篇を収め、のちに「花葬」と総称される連作の核をなす短編集です。
物語の入り口
苑田岳葉は、大正の歌壇で脚光を浴びていた歌人です。その男が、二度の心中未遂事件を起こします。
二度とも、相手の女だけが死にました。岳葉は生き残り、その情死行を歌に詠みます。
そして歌を遺して、自害しました。岳葉は誰を本当に愛していたのか、そして二人の女を道連れにしてまで何を手に入れようとしたのか。
表題作は、この二つをめぐって進みます。歌人の胸にあった野心と、巻き込まれて命を落とした女たちの哀しさ。
その両方を、作者は一篇のなかに書き込んでいきます。
読者に手渡されるのは、歌人の名と、二つの死と、遺された歌。表題作は30〜40分ほどで読み通せる長さですが、その短い紙幅に、歌壇の寵児という華やかな肩書きと、二度の情死行の暗さとが並べて置かれています。
収録は「藤の香」「桔梗の宿」「桐の柩」「白蓮の寺」「戻り川心中」の順に5篇。藤に始まり、戻り川に終わります。
いずれも花の名を題に冠し、明治末から昭和初期の近過去を舞台にしています。遊郭、任侠の世界、文人の心中行。
退廃の匂いの濃い場所ばかりを選んで、耽美な筆致で描いていく連作です。題の花と、時代と、舞台の質。
読み手はそれを手がかりに、一篇ずつ扉を開けていくことになります。各篇の核には謎と犯罪が据えられているのに、語り口はあくまで詩情の側にあります。
犯罪を扱う題材と、歌のように抑えた語りとのあいだの距離が、この連作の手ざわりを作っています。
読みどころ
読みどころは、人の情と論理の輪郭が、同じ筆で描かれているところにあります。 連城の本格短編は、技巧の派手さで驚かせる種類のものではありません。
誰が誰を想い、何を隠し、何に耐えていたのか。その情のもつれを書く筆が、そのまま謎の造りへ流れ込んでいきます。
古典本格に親しんできた読者には、人情と事実のあいだに隠れたものを追うこの姿勢が、目新しく映るかもしれません。心中という題材ひとつをとっても、命を落とした女たちの側と、生き残った歌人の側の、その双方に筆が届いています。
もうひとつは、文章の美しさです。耽美と詩情をたたえたその筆は、飾りではなく、謎の器そのものになっています。
花の名、心中、遺された歌。素材の一つひとつが退廃の色を帯びていて、読み終えたあとに残るのは、謎が解けた爽快さよりも、長い詩を一篇読み終えたときの余韻に近いものです。
5篇がそれぞれ独立した謎を持ちながら、花と死の像を共有しているために、短編集全体が一つの連作として読めます。
派手な仕掛けや名探偵の名推理を期待して開くと、静かな本に映るかもしれません。事件はあり、謎はあり、解決もあります。
けれども筆は最後まで詩情の側を離れません。その抑えた筆が、事件の一つひとつを、詩に近い手ざわりの物語へ変えています。
作品の背景
『戻り川心中』の単行本は1980年。翌1981年、表題作「戻り川心中」が第34回日本推理作家協会賞短編部門を受けました。
授賞時の選評が評価したのは「二重三重の意外性を用意した綿密な構成」です。この短編集は、連城三紀彦が1984年に『恋文』で直木賞を受ける4年前に出ています。
手に取るなら
いま手に取るなら、光文社文庫版(2006年)です。新刊書店で入手でき、一篇は30〜40分ほどで読み切れます。
一篇を読み終えたら本を閉じ、翌日また次の花へ進む。そういう付き合い方が、この連作にはよく合います。
順に読むなら、藤から戻り川へ。表題作を先に読んでも差し支えありませんが、5つの花を題の順に辿ると、連作としての像が最後に結びます。
連城三紀彦を『恋文』の側から知った読者には、直木賞より前に書かれた謎解きの短編集として読めます。表題作の歌人の名と、遺された歌——そこから、5篇の花が順に開いていきます。
連城三紀彦について
連城三紀彦は1948年、名古屋市の生まれです。本名は加藤甚吾で、早稲田大学政治経済学部を卒業しています。
短編「変調二人羽織」が第3回幻影城新人賞に入選し、同作が『幻影城』1978年1月号に載って世に出ました。1981年に「戻り川心中」で第34回日本推理作家協会賞(短編部門)、1984年には『宵待草夜情』で第5回吉川英治文学新人賞、『恋文』で第91回直木賞を受けています。
大胆な仕掛けと叙情の濃い文章を一つの作品のなかに同居させる作風で知られ、ミステリの技法を心の機微の描写に生かした恋愛小説でも評価を得ました。直木賞のあとは大衆小説に軸足を移しながら、誘拐ものや心理劇などのミステリも書き続けました。
1987年に得度した真宗大谷派の僧侶でもありました。1996年には『隠れ菊』で柴田錬三郎賞を受けています。
2013年10月に65歳で亡くなり、翌年、日本ミステリー文学大賞特別賞が贈られました。
書誌情報
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