二つの殺人の第一容疑者。
密室の鍵貸します
事件に巻き込まれた学生の災難を、笑いと謎解きが入り交じる語りで楽しめます。
一日のうちに、恋人と先輩が立て続けに殺され、自分がその両方の第一容疑者になる。そんな厄日を想像できるでしょうか。
東川篤哉『密室の鍵貸します』は、しがない貧乏学生・戸村流平がその厄日を迎えるところから始まる、著者のデビュー作です。彼を手ひどく振った恋人が、背中を刺され、4階から突き落とされて死亡。
その夜、一緒だった先輩も、流平が気づかぬ間に浴室で刺されて殺されていました。かくして、二つの殺人事件の第一容疑者となった流平の運命やいかに。
2002年の刊行で、烏賊川市シリーズの第1作です。
物語の入り口
主人公は、しがない貧乏学生の戸村流平です。その日は、彼にとって厄日そのものでした。
まず、彼を手ひどく振った恋人が死にます。背中を刺され、4階から突き落とされて。
その夜、流平は先輩と一緒でした。ところがその先輩も、流平が気づかぬ間に、浴室で刺されて殺されていたのです。
かくして流平は、二つの殺人事件の第一容疑者になります。恋人に振られた男が、その恋人の死んだ日に、一緒にいた先輩まで死んでいる。
疑われるのも無理はない状況です。しかも当人は、しがない貧乏学生で、弁護士を雇う金も、身を守る後ろ盾もありません。
流平の身に降りかかったのは、どこから手をつければいいのかもわからない種類の災難です。刺された背中、4階からの転落、浴室の死体——一日のうちに並んだ出来事のどれもが、彼一人の手には余ります。
当人にとって笑えない災難を、笑える語りで読ませる。それがこの作家の持ち味で、このデビュー作はその原点です。
恋人に振られ、その恋人が死に、先輩まで死ぬ。書き出せば悲惨ですが、読んでいる側は、流平のついていなさに笑ってしまいます。
笑っているうちに、二つの死体をめぐる状況が本格ミステリの謎として立ち上がってくる。読み手が気づいたときには、笑いながら手がかりを拾わされているのです。
この呼吸を、東川篤哉は最初の一冊から持っていました。
読みどころ
本作の醍醐味は、災難の連続を笑いながら読んでいるうちに、本格ミステリの謎解きに引き込まれているところにあります。 貧乏学生が一日に二つの殺人の容疑者になる、という状況は、それ自体が喜劇です。
しかし、恋人が4階から落ち、先輩が浴室で刺されている、という二つの死は、どちらも謎として真面目に扱われます。笑わせるためだけの場面はなく、笑っている場面がそのまま事件の一部になっている。
流平が転がり落ちていく厄日の一つひとつが、あとで考える材料になっているのです。笑いと謎解きを別々に用意して交互に差し出すのではなく、一つの語りで両方を運んでいく——ユーモア本格という書き方の芯は、そこにあります。
もうひとつは、デビュー作としての勢いです。新人の第一作には、書きたいことを全部詰め込んだ密度があります。
このデビュー作も、題名にわざわざ「密室」を掲げ、二つの殺人を一日に置き、主人公を最悪の立場に追い込んで始めます。出し惜しみがない。
この後の烏賊川市シリーズを読んでいくと、ここで提示されたものが、どう育っていくかが見えてきます。
語り口は軽くても、事件そのものは二つの殺人です。笑える話だけを期待して開くと、死の並びの容赦なさに一瞬ひるむかもしれません。
それでも、重い事件をしかめ面で追うのに疲れた人には、笑いながら二つの死体の謎に付き合えるこの軽さが、何よりの助けになるはずです。
作品の背景
『密室の鍵貸します』は2002年に光文社から刊行されました。東川篤哉は、光文社の新人発掘企画〈KAPPA-ONE〉の一期生として本作でデビューしています。
烏賊川市シリーズはこの一冊から始まり、以後、架空の地方都市・烏賊川市を舞台にした連作が書き継がれて、10作を数えるまでになりました。シリーズの出発点であると同時に、東川篤哉という作家の出発点でもあります。
笑いを取りながら論理を崩さない書き方は、この第一作の時点で、もう出来上がっていました。この人の本をまだ読んだことがないなら、ここから読むのが順当です。
手に取るなら
現在手に取るなら、光文社文庫版です。電子版もあります。
烏賊川市シリーズの第1作なので、シリーズを順に読みたい人はここが出発点です。ユーモアミステリを読んだことがない人、笑える推理小説を探している人、ある作家の最初の一冊から順に追いたい人に向いています。
『謎解きはディナーのあとで』から東川篤哉を知った人には、その作家がどこから来たのかを知る機会になります。文庫一冊で読み切れる長さです。
恋人と先輩が同じ日に殺され、自分が疑われる。貧乏学生の厄日は、ここから始まります。
東川篤哉について
東川篤哉は1968年、広島県尾道市の生まれです。岡山大学法学部を卒業し、鮎川哲也が編集を務めた公募アンソロジー『本格推理』への入選を重ねたのち、2002年に光文社の新人発掘企画〈KAPPA-ONE〉の第一期として『密室の鍵貸します』でデビューしました。
笑いの絶えない語り口のなかに本格の謎解きを組み込む作風で知られ、私立探偵の鵜飼杜夫が活躍する烏賊川市シリーズや、学園を舞台にした鯉ケ窪学園シリーズなど、連作を数多く書いています。2011年には『謎解きはディナーのあとで』で第8回本屋大賞を受け、広く読まれる作家になりました。
ほかに『魔法使いは完全犯罪の夢を見るか?』『探偵少女アリサの事件簿』などのシリーズがあります。
書誌情報
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