ミステリーとしての読みどころ
落ちぶれた作家が、他人の人生を代わりに書いて糊口をしのぐ——そんな皮肉な立場の男が探偵役に回る、軽妙で都会的なミステリの幕開けです。主人公スチュワート・ホーグは、かつて鮮烈なデビューで文壇の注目をさらった作家。
ところがいまの彼は、有名人の自伝を陰で書くゴーストライターとして、どうにか食いつないでいます。かつての栄光と、他人の名前で文章を売る現在。
そのねじれた距離のなかに、この物語は立っています。自分の名前ではもう書けなくなった男が、他人の人生の語り手を務める。
その皮肉な設定が、読み進めるほどにじんわり効いてきます。
著者について
著者のデイヴィッド・ハンドラーが世に送り出したホーグ・シリーズの、記念すべき第1作にあたります。原書は1991年、日本では講談社文庫から1994年に紹介されました。
そして本作は、アメリカ探偵作家クラブが贈るエドガー賞の最優秀ペーパーバック賞を射止めています。文学界の内幕を舞台にした洒脱な語り口が、ミステリの本場で正当に評価された一冊。
シリーズものの第一歩として、これ以上ない滑り出しを飾った作品だと言えるでしょう。
物語の幕が上がるのは、花々が咲きそろった明るい春のニューヨークです。街全体がやわらかな光に包まれるこの季節、ホーグはバセット・ハウンドの愛犬ルルを連れて歩いています。
垂れた耳と物憂げな眼をした相棒の存在が、うらぶれた作家の日常に、なんとも言えない可笑しみと温度を添える。そんな彼のもとへ、次の仕事が舞い込みます。
書くべき相手は、ノイエスという若い作家。彗星のごとく文壇に現れ、「次のフィッツジェラルド」ともてはやされた、まばゆい才能の持ち主です。
ところがこの新星、華やかな生活のただなかで、二作目の筆がぴたりと止まってしまっている。世間の期待を一身に背負いながら、次の一行を書けずにいる若き天才。
デビュー作の輝きと、それに続く沈黙という取り合わせは、どこかホーグ自身の来し方と重なって見えます。かつて鮮烈な一作目を放ったのち、二作目でつまずいた男。
片や、まばゆい一作目のあとで動けなくなった若者。その伝記を、いまは代筆で身を立てる先輩作家が引き受ける——役者の顔ぶれだけで、すでに物語の空気が匂い立ってきます。
かつて自分もまた「期待の新人」と呼ばれた男が、いままさに同じ光を浴びる後輩の人生に分け入っていく。読者は、他人の栄光と挫折を至近距離から観察するホーグの視線に、いつのまにか肩を並べることになります。
明るい春の陽気のなかで幕を開けるこの物語が、アメリカ探偵作家クラブのエドガー賞に輝いた一作であることは、ここで思い出しておいてよいでしょう。この伝記仕事の行方は、ぜひご自身の目で確かめてください。
読みどころは、この主人公の職業設定そのものにあります。ゴーストライターとは、他人の記憶と秘密のいちばん奥まで入り込み、それを言葉に組み替えていく仕事です。
探偵という肩書きこそ持たないものの、人の内面を掘り起こして真実の輪郭を探るという点で、ホーグはきわめて探偵的な立ち位置にいる。相手の口から語られる過去を、そのまま信じてよいのか。
取材と称して人の記憶の奥へ踏み込んでいくその職能そのものが、この物語の推進力になっています。落ちぶれてなお筆一本で生きる男が、書くという行為を通じて世界の裏側へたどり着いていく。
その道行きそのものが、読者を先へ先へと引っぱっていきます。
読みどころ
都会的なユーモアと文学界の内幕を、洒脱に織り交ぜた語り口が最大の持ち味です。 出版という華やかで俗っぽい世界の内側を、皮肉と愛着の両方をこめて眺める視線。
落ちぶれた一人称の「僕」が繰り出す、自嘲まじりの軽口。そうした都会の洒脱さが全編にゆきわたっていて、肩の力を抜いたまま最後まで運んでくれます。
エドガー賞という結果が示すとおり、その軽さは決して底が浅いということではなく、練り上げられた話術に支えられた軽さです。
こんな人におすすめ
相性の面から正直に言えば、手がかりを一つずつ拾い上げて犯人を論理で追い詰めていく、硬質なパズル型の謎解きを求める読者には、少し毛色が違って映るかもしれません。本作の魅力は、精緻な論理の曲芸よりも、登場人物たちの生態を洒脱に描き出す語りの妙のほうにあります。
裏を返せば、洗練された会話や気の利いた一人称の声を楽しめる読者、出版界や文学者の内幕をのぞき見るのが好きな読者には、まっすぐ届く一冊です。ミステリを、謎そのものだけでなく、それを語る声や雰囲気ごと味わいたい人に向いています。
手に取るなら
入手は講談社文庫版で。もともとペーパーバックで評価を確立した作品だけあって、気軽に手に取れる読み口です。
そして本作は、あくまでもホーグ・シリーズの出発点。この皮肉屋の作家と垂れ耳の相棒が気に入ったなら、その先の巻へと歩みを進める楽しみも待っています。
気取らずに読めて、それでいて読み終えたあとに文学界の空気がふっと残る。都会的で軽妙なミステリの入り口として、安心しておすすめできる一作です。