二人いた。
ピーター卿の事件簿
貴族探偵ウィムジイ卿が短い謎に挑む、多彩な趣向を楽しめる短編選集。
短い謎が七つ、行儀よく並んでいます。どれもひと晩の途中で読み切れる長さで、しかもどの一編として同じ趣向がない。
『ピーター卿の事件簿』は、長編で名高い貴族探偵ピーター・ウィムジイ卿の魅力を、掌編の切れ味で味わえる一冊です。
物語の入り口
1923年の『誰の死体?』で世に出たウィムジイ卿は、はじめ従僕を連れた優雅な青年貴族として登場します。やがて作家ハリエット・ヴェインとの大恋愛を経て、人間として大きく成長していきます。
古今の名探偵のなかでも、屈指の魅力を放つ人物です。長編ではその成長の物語をたっぷり味わえますが、本書が差し出すのはもっと軽やかな時間。
短い謎に挑む名探偵の身のこなしそのものを楽しむ趣向になっています。
本を開くと、気質のまるで違う七つの謎が顔を並べています。長編のように腰を据える必要はありません。
目次から気になる題名をひとつ選び、そのまま一編の世界に滑り込めばいい。たとえば「鏡の映像」は、左右の臓器がそっくり逆になった男をめぐる一編です。
人体の常識が裏返ったようなこの発端を前にすると、いったい何が起きているのかと、ページをめくる手が止まらなくなります。かと思えば「完全アリバイ」では、崩しようのない鉄壁のアリバイがウィムジイ卿の前に立ちはだかる。
隙のない論理の砦に、名探偵はどこから風穴を空けていくのか。読み手はその手つきを、固唾をのんで見守ることになります。
続く顔ぶれも多彩そのもの。「ピーター・ウィムジイ卿の奇怪な失踪」「盗まれた胃袋」「銅の指を持つ男の悲惨な話」「幽霊に憑かれた巡査」「不和の種、小さな村のメロドラマ」——題名を眺めるだけでも、都会の奇譚あり、怪奇の気配あり、小さな村のさざ波ありと、振れ幅の大きさが伝わってきます。
ひとつとして同じ色合いの謎がなく、どの扉を開けても、その先には別の空気が流れています。
短編集の醍醐味は、この気分の切り替わりにあります。一編ごとに舞台も事件の色も入れ替わり、そのたびにウィムジイ卿が別の表情を見せる。
ある謎では飄々と、ある謎では執拗に。長編なら一冊かけて描かれる名探偵の多面性が、ここでは短い距離のなかに凝縮されています。
しかも、どこから読み始めても、短い道のりの先にはきちんと解決の手応えが返ってくる。その律儀な満足感を、七編ぶん続けざまに味わえるのです。
読者はいわば、名探偵の仕事ぶりを気軽な一幕物として次々に観客席から眺めていく位置に立たされます。
読みどころ
本書の役どころは、長編で知られる名探偵を、いちばん手軽な距離で楽しめることにあります。 分厚い一冊を読み通す時間はとれないけれど、あの貴族探偵の身のこなしには触れたい。
そんなときに、短い尺の切れ味は理想的に働きます。手がかりを拾い、筋道を立て、意外な着地へ運ぶ——謎解きのひと通りが、ちょっとした空き時間にも読み切れる長さのなかにきちんと収まっている。
黄金期の探偵小説が持っていた職人的な作りの良さを、短編という形でくっきり味わえます。
加えて、セイヤーズならではの語り口の軽やかさも見逃せません。広告の世界で言葉を磨いた書き手だけあって、会話の間合いや情景の切り取りには都会的な洒脱さがあります。
謎の骨格を組む手つきは黄金期らしく端正でありながら、それをくるむ文章はしゃれていて、読み心地がいい。名探偵ものの様式美と、作家のセンスの良さが、短い一編のなかで無理なく同居しているのです。
こんな人におすすめ
名探偵の推理に身を任せる愉しみを、あれこれ趣向を変えながら味わいたい読者には、うってつけの一冊です。とりわけ、長編ミステリの分量に少し腰が引けてしまう人にとって、短編集は格好の入り口になります。
逆に、ひとつの大きな謎にじっくり潜り込み、長い助走のはての解決を堪能したいという向きには、掌編の身軽さがやや物足りなく映るかもしれません。ただ、その身軽さこそが本書の持ち味です。
腰を据えた長編は別の機会に譲り、まずはこの七編でウィムジイ卿と顔合わせをしておく——そんな付き合い方がよく似合います。
手に取るなら
手に取るなら、創元推理文庫の一冊です。原書『Lord Peter Views the Body』(1928年)をもとに、日本では原短編集からの選りすぐりとして編まれ、宇野利泰の訳で長く読み継がれてきました。
巻末には戸川安宣による解説を収録。長編で名高いウィムジイ卿ものへの、そして黄金期英国ミステリの奥行きへの、心地よい入り口となる選集です。
ドロシー・L・セイヤーズについて
ドロシー・L・セイヤーズは1893年、オックスフォードの生まれです。オックスフォード大学サマーヴィル・カレッジで中世フランス語を学び、1915年の最終試験で最優等の成績を収めました。
1922年から当時英国最大の広告代理店でコピーライターとして働き、そのかたわら書いた『誰の死体?』で1923年にデビューします。この作品で登場したのが、貴族探偵ピーター・ウィムジイ卿です。
ピーター卿の物語は、『毒を食らわば』で探偵小説作家ハリエット・ヴェインを迎え、『学寮祭の夜』『大忙しの蜜月旅行』へと続いていきます。謎解きに人物や土地の描写を厚く重ねた作風で、クリスティと並ぶ英国黄金期の代表的な作家に数えられ、1930年にはディテクション・クラブの創設にも加わりました。
後年は宗教劇やダンテ『神曲』の英訳に力を注ぎ、1957年に世を去っています。
書誌情報
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