ミステリーとしての読みどころ
休戦記念日の晩、街の騒がしさから隔てられた一室で、クラブの古参会員が椅子に坐ったまま死んでいました。『ベローナ・クラブの不愉快な事件』は、その静かな死をきっかけに、思いもよらないところまで転がっていく物語です。
1928年に発表された、ドロシー・L・セイヤーズのピーター卿もの長編第四弾。幕開けは派手さと無縁です。
それでも読み進めるほどに、手にしていたはずの問いのかたちが少しずつ変わっていきます。
著者について
ドロシー・L・セイヤーズは1893年、オックスフォードに生まれました。作家としての出発点は広告の世界にあり、コピーライターとして言葉で人を動かす仕事に就いていた人です。
限られた字数に効き目を仕込む訓練を積んだ書き手が、1923年、『誰の死体?』でピーター卿という探偵を世に送り出しました。以後、この探偵とともに歩んだ道のりが、そのまま黄金時代の中心線の一本になります。
同時代のアガサ・クリスティと並び称される存在であり、『ナイン・テイラーズ』『五匹の赤い鰊』『学寮祭の夜』といった代表作の名は、いまも黄金期を語るときの基準点でありつづけています。1957年に世を去るまで、その名前が探偵小説の真ん中から動くことはありませんでした。
物語の入り口
物語は、騒々しい休戦記念日の晩から始まります。ピーター卿がベローナ・クラブへ足を運んだのは、戦死した友人を悼む晩餐会に出席するためでした。
街のにぎわいと、失われた名前を口にするためのしめやかな席。相反する二つの気配が同じ夜に同居しているところから、この長編は動き出します。
そしてピーター卿は、そのクラブで思いがけない場面に出くわしてしまう。古参の会員であるフェンティマン将軍が、椅子に坐ったまま死んでいたのです。
年齢を重ねた会員が、通いなれた場所の椅子で息を引き取る。それだけであれば、静かな幕切れの一つとして受け止められたのかもしれません。
ところがことは、由々しき問題へと発展していきます。故人には、縁の切れた妹がいました。
資産家となっていた彼女は、生前に一通の遺言を残しています。兄が自分より長生きしたならば遺産の大部分を兄に、逆の場合には被後見人の娘に大半を渡す——そういう主旨の遺言でした。
そして、あろうことか、その妹は偶然にも同じ朝に亡くなっていたのです。兄と妹、どちらが先に世を去ったのか。
その一点で、大きな資産の行方がまるごと入れ替わってしまう。弔いの席に居合わせただけだったはずのピーター卿は、順序を確かめずには済まされない立場へと押し出されていきます。
読者もまた、故人を悼む側の椅子に腰かけたまま、いつのまにか一つの死を事実として調べ直す側へ座り直させられることになります。悲しみの作法と、確認の手続き。
その二つを同時に抱えたまま先へ進むのが、この作品の居心地の妙です。
読みどころ
読みどころは、弔いの晩がいつのまにか事実を確かめる場へと姿を変えていく、その移り変わりの手つきにあります。 発端にあるのは、老会員の死と一通の遺言という、いかにも散文的な材料です。
ところが、その散文的な材料を一つずつ確かめていくうちに、問題の輪郭がずれていく。出版社の紹介が「謎が転調に転調を繰り返す」と言い表すとおり、序盤で読者が引いた見取り図は、章を追うごとに別の顔を見せます。
同じ楽譜を読んでいるつもりで、いつのまにか調が変わっている。そんな感触の一作です。
もう一つ挙げるなら、事件の起きる晩そのものが持つ手触りでしょうか。休戦記念日の喧騒と、戦死した友人を悼む晩餐会。
祝祭と喪失が背中合わせになった夜の底に、静かな死が一つ置かれている。黄金期の探偵小説を「明るい謎解き」の一語でまとめてしまう見方があるとすれば、この幕開けはそこからこぼれ落ちます。
1928年という発表年が背負っていた時代の気配が、事件の背景に薄く敷かれている。そのぶんだけ、物語に厚みがあります。
向いているのは、事件の派手さよりも、事実が一つずつ確かめられていく過程そのものを面白がれる読者です。遺言や相続といった、血なまぐささから最も遠い場所にある材料が、いつのまにか推理の中心に据えられていく——その運びにじわりと惹かれる方には、たいへん相性のよい書き手でしょう。
逆に、冒頭から事件が続けざまに起こる勢いを求めて開くと、立ち上がりの静けさは物足りなく映るかもしれません。ただ、その静けさは、物語が動き出したときの効き目を支えるための助走でもあります。
手に取るなら
現在手に取るなら、東京創元社の創元推理文庫版です(邦訳は1995年)。原題は The Unpleasantness at the Bellona Club、発表は1928年。
『誰の死体?』に始まるピーター卿ものの長編第四弾にあたり、代表作として名の挙がる『ナイン・テイラーズ』『学寮祭の夜』へと連なる線の上に置かれた一冊でもあります。クリスティと並び称された書き手が、静かな死の一場面からどこまで物語を転がしていけるのか。
セイヤーズという作家の運びを知るうえで、これは手に取りやすい入口の一つです。