戦後昭和国内 1978
一夜をともにした男は、
ひと月前に殺されていた。
『湖底のまつり』泡坂妻夫

書評

湖底のまつり

命を救ってくれた男は、ひと月前に殺されたと告げられる。足場が揺れる長篇。

湖底のまつり 表紙画像
泡坂妻夫 東京創元社(創元推理文庫)1978年
目次

傷ついた心を癒す旅に出た香島紀子は、山間の村で、急に増水した川に流されてしまいます。ロープを投げ、救いあげてくれたのは、埴田晃二。

その夜、二人は結ばれます。ところが翌朝、晃二の姿は消えていました。

村祭で賑わう神社に赴いた紀子は、そこで教えられます。晃二は、ひと月前に殺されていた。

では、自分を愛してくれたあの人は、誰なのか。泡坂妻夫の『湖底のまつり』は、その一つの問いから動き出す物語です。

物語の入り口

香島紀子は、傷ついた心を癒すために、旅に出ました。なぜ傷ついているのかは、物語のなかで少しずつ明かされます。

彼女が辿り着いたのは、山間の村です。そこで、川が急に増水し、紀子は流されてしまいます。

命の危険のなかで、ロープが投げられました。救いあげてくれたのは、埴田晃二という男でした。

命を救われた夜、二人は結ばれます。旅先で出会った男と、一夜をともにする。

傷ついた心には、その出会いが救いに見えたはずです。旅の途中で、命と心を同時に救われる。

それ以上の出来事は、そうありません。ところが翌朝、晃二の姿は消えていました。

紀子は、村祭で賑わう神社に赴きます。そこで教えられたのは、信じがたいことでした。

埴田晃二は、ひと月前に殺されている。

では、自分を愛してくれたあの人は、誰なのか。昨夜、確かに自分を救い、確かに自分と結ばれた人が、ひと月前に死んでいる。

紀子の足元は、ここで一度、崩れます。そして、最後まで安定しません。

自分が経験したはずの一夜が、村ではまったく別の意味を持っている。その食い違いを、彼女は一つずつ確かめていくことになります。

読者は、紀子と同じ揺れる足場に立たされます。犯人を追う話でも、警察が動く話でもありません。

理詰めで詰めていく本格とは、温度が違う。物語を引っぱるのは、あの人は誰だったのか、という問いです。

不穏な感触が、ページをめくるあいだずっと続きます。

読みどころ

紀子の立っている足場が、最後まで安定しないこと。読みどころは、まずそこにあります。

自分を愛してくれた人が、ひと月前に死んでいた。この一点から、彼女の経験したすべてが、村の現実と食い違い始める。

犯人探しではなく、自分の一夜の意味を確かめる旅——確かめようとするたびに、自分の覚えている夜と村で聞かされる話との隔たりが、かえって目に見えてきます。理詰めの本格とは別の温度で、不穏さが積み重なっていきます。

もうひとつは、紀子という人物の置き方です。彼女は探偵でも警察官でもなく、傷ついた心を癒すために旅に出た一人の女性にすぎません。

謎を解く役目を負って村へ来たわけではない人が、自分の身に起きた一夜の意味を、自分の手で確かめなければならなくなる。頼れる相棒も、捜査の手順もないまま、見知らぬ土地で聞かされた事実と、自分が過ごしたはずの時間とを突き合わせていく——その心細さが、そのまま頁をめくる手の重さになります。

読み終えたあとには、あの場面はどう見るべきだったのか、と考え直したくなる余韻が残ります。

こんな人におすすめ

心理サスペンスの不穏な感触を好む読者、読後に考え直したくなる余韻を求める読者に向いています。亜愛一郎ものの軽妙な短編で泡坂妻夫を知った人には、この作家の別の顔を知る一冊として薦められます。

逆に、理詰めで犯人を追う本格の緊張を求める気分のときには、本作の温度は少し湿って感じられるかもしれません。その湿り気こそが、この作品の持ち味です。

足場の定まらない心細さを味わえる人には、忘れがたい読書になります。

作品の背景

本作は『幻影城』の1978年6・7月号から10月号にかけて連載され、同年11月に幻影城ノベルスから単行本が出ました。現行版は創元推理文庫で302ページ、電子版もあります。

解説は綾辻行人。亜愛一郎ものの短編を書き継いだ作家の、それとは対照的な一冊です。

軽妙な短編とは正反対の、重く湿った長篇がここにあります。

手に取るなら

現行版は創元推理文庫。シリーズには属さない単独の長篇ですから、泡坂妻夫の他の作品を読んでいなくても問題ありません。

物語は、山間の村で紀子が増水した川に流される場面から動き出します。ロープを投げてくれた人が誰なのか、紀子とともに確かめに行ってください。

泡坂妻夫について

泡坂妻夫は1933年、東京・神田の生まれで、本名は厚川昌男です。筆名は本名のアナグラムになっています。

生家は着物に家紋を描き入れる紋章上絵師で、作家になってからも家業を続けました。奇術師としての顔も持ち、1969年には創作奇術をまとめた作品集で第2回石田天海賞を受けています。

1976年、短編「DL2号機事件」が第1回幻影城新人賞の佳作に入ってデビューしました。1978年に『乱れからくり』で第31回日本推理作家協会賞、1982年に『喜劇悲奇劇』で第9回角川小説賞を受けます。

のちには職人の世界を描く人情ものにも筆を広げ、1988年に『折鶴』で第16回泉鏡花文学賞、1990年に『蔭桔梗』で第103回直木賞を受けました。探偵役には亜愛一郎、曾我佳城、ヨギ ガンジーらがいます。

2009年に75歳で亡くなっています。

書誌情報

出版社
東京創元社 / 創元推理文庫
刊行年
1978
ISBN-13
9784488402136
系譜
戦後昭和国内

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この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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