鑑識は美女の死体に夢中。
煙の殺意
八つの異なる趣向を一冊に収めた、泡坂妻夫の短編ミステリ集。
捜査そっちのけの警部と、美女の死体に張り切る鑑識官。泡坂妻夫『煙の殺意』の表題作は、この脱力したコンビによる殺人現場のリポートです。
同じ本には、往復書簡で綴られる地中海のシンデレラストーリー「閏の花嫁」も収められています。笑いの側に振れた現場報告と、手紙だけで進む物語。
趣向の異なる八つの入口から、短い篇幅に凝縮された発想力へ。奇術家としても活動した作家の、短編の芸がここにあります。
物語の入り口
収録されているのは八編。「赤の追想」「椛山訪雪図」「紳士の園」「閏の花嫁」「煙の殺意」「狐の面」「歯と胴」「開橋式次第」。
この順に並んでいます。題名の字面だけでも、一編ごとに世界が違うことがわかります。
表題作「煙の殺意」は、殺人現場のリポートです。ただし、リポートする側が、ふつうではない。
警部は、捜査そっちのけ。鑑識官は、美女の死体に張り切っている。
この脱力したコンビが、殺人現場で何をするのか。真面目な捜査を期待すると、最初から裏切られます。
その裏切りが、この一編の入口です。警部と鑑識官という、本来なら現場でいちばん職務に忠実であるはずの二人が、そろって本分から外れている——その外れ方の可笑しさが、人が死んだ重い舞台を、軽やかな喜劇の場に変えています。
「閏の花嫁」は、往復書簡で綴られます。舞台は地中海。
筋立てはシンデレラストーリーです。手紙のやりとりだけで進む物語が、どうミステリになるのか。
往復書簡という形式そのものが、この一編の趣向です。「赤の追想」から「開橋式次第」まで、ほかの六編も題名の響きがそれぞれに異なり、並べて眺めるだけで一冊の幅が伝わってきます。
読者は、八つの違う入口から、八つの違う部屋に入ることになります。殺人現場、往復書簡、そしてほかの六つの扉。
入口の形はさまざまで、どれも同じ形をしていません。一編ずつ区切り、間をおいて次の扉を開ける、というつきあい方がよく合います。
読みどころ
八つの異なる趣向が、一編ごとに入れ替わりながら次々に差し出されるところに、本作の醍醐味があります。 脱力した警部と鑑識官の現場リポート、地中海の往復書簡、そして「赤の追想」「椛山訪雪図」「紳士の園」「狐の面」「歯と胴」「開橋式次第」の六編。
入口の形が一編ごとに違うので、次に何が来るのか見当がつかない——その落ち着かなさが、短編集ならではの楽しみです。八編を読み終えるころには、この作家の引き出しの多さに、素直に驚いているはずです。
もうひとつは、書き手の幅が、そのまま短編集の幅になっているところです。泡坂妻夫は『乱れからくり』で日本推理作家協会賞を受ける一方、『折鶴』で泉鏡花文学賞、『蔭桔梗』で直木賞も手にした作家でした。
表題作の、捜査そっちのけの警部と張り切る鑑識官という喜劇めいた取り合わせと、地中海を舞台に手紙だけで綴られるシンデレラストーリー。笑いに振れた一編と、書簡の往復で運ばれる一編が、同じ本のなかで隣り合っています。
謎解きの枠は崩さないまま、語り口だけが一編ごとに大きく振り分けられています。
こんな人におすすめ
短編で切れ味を味わいたい人、趣向の異なる物語を次々に読みたい人に向いています。泡坂妻夫をこれから読む人には、亜愛一郎ものと並んで、この短編集から入るのもひとつの道です。
逆に、一冊を通してひとつの物語に浸りたい気分のときには、八つの扉の切り替えが少し忙しく感じられるかもしれません。
作品の背景
本作は1980年11月、講談社から単行本が出ました。1984年10月に講談社文庫、2001年11月に創元推理文庫と版を移し、刊行から四十年以上を経て、なお版を重ねている短編集です。
収録作のうち「赤の追想」は、1988年にフジテレビ系の「現代恐怖サスペンス」の一編としてテレビドラマになりました。
手に取るなら
現行版は創元推理文庫で306ページ、紙でも電子でも読めます。この版には、北森鴻の「これまでもこれからも、僕の短編ミステリの大切なお手本です」という推薦の言葉が添えられています。
シリーズには属さない独立した短編集ですから、泡坂妻夫の他の作品を読んでいなくても問題ありません。まずは表題作の、脱力した殺人現場から。
八つの扉を、順に開けていってください。どの扉の向こうにも、違う趣向が待っています。
一日一編、八日間の贅沢な読書になります。
泡坂妻夫について
泡坂妻夫は1933年、東京・神田の生まれで、本名は厚川昌男です。筆名は本名のアナグラムになっています。
生家は着物に家紋を描き入れる紋章上絵師で、作家になってからも家業を続けました。奇術師としての顔も持ち、1969年には創作奇術をまとめた作品集で第2回石田天海賞を受けています。
1976年、短編「DL2号機事件」が第1回幻影城新人賞の佳作に入ってデビューしました。1978年に『乱れからくり』で第31回日本推理作家協会賞、1982年に『喜劇悲奇劇』で第9回角川小説賞を受けます。
のちには職人の世界を描く人情ものにも筆を広げ、1988年に『折鶴』で第16回泉鏡花文学賞、1990年に『蔭桔梗』で第103回直木賞を受けました。探偵役には亜愛一郎、曾我佳城、ヨギ ガンジーらがいます。
2009年に75歳で亡くなっています。
書誌情報
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